無名氏の跋文について



南宋・周南撰『山房集』に採録する跋文には、説郛や百川学海に伝わる跋文の遺漏を補う所がある。それは「志徹因将隋書草藁示予、遂得録前事」の九字で、志徹がこの『隋書』の草藁(下書き)を予(わたし)に見せてくれたことをいう。つまりは、この「予」が、もと『南部烟花録』と題された残片を『隋書』によって補い『大業拾遺記』を編纂したことになる。従って、この跋文の前に展開される作品の名は『隋遺録』ではなくて『大業拾遺記』であることがふさわしく、またこの『大業拾遺記』の著者は跋を書いた「予」ということになる。この「予」が名を騙って顔師古としたために『大業拾遺記』の著者は顔師古となって伝わったという次第であろう。

従って、この「予」は、僧の志徹と同じく唐武宗の会昌中(八四一〜八四六年)の人で、しかも「今尭風已還、コ車斯駕」の世にいた人ということになる。この、尭風が回復した有徳の天子の時代が、李剣国がいうように武宗の次の天子、宣宗の大中年間(八四七〜八五九年)であるならば、『大業拾遺記』が書かれたのは晩唐の大中年間かそれより後のことになる。従って、陳末から隋を経て初唐の貞觀十九年(六四五年)に六十五歳で病卒した顔師古が著者であることはありえないし、その上にまた、『宋史』巻二百三芸文志正史類に「顔師古 隋書八十五巻」とあるように、『漢書』一百巻顔師古注以外に、『隋書』八十五巻をも著した顔師古が、隋の史実としては越王であるべきところを『大業拾遺記』で越王侑としたり、何稠と何妥の車を混同したり、死去後十年以上経過している楊素を登場させたりするようなことは考えられない。



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