『中国環境保護史話』訳注(四)

 

久保卓哉

 

袁清林著『中国環境保護史話』中国環境科学出版社1990年全272頁は、中国の環境破壊と環境保護の実態を歴史的に解明した好著である。経史子集および地方志、紀行文の文献と先行論文を博く引用し、森林、河川、湖沼の自然環境の変化と動植物の生態の変化を明らかにしながら、人類が生きていくための活動が及ぼす自然環境への影響がいかに大きいか、事の重大さをわれわれにおしえてくれる。

[キーワード:揚子江ワニ、揚子江カワイルカ、孔雀、象、茘枝、気温変動、虞衡司、軍屯、

       商屯、塩商人、人口問題]

 

 

 

 

訳者序文 4- 1

 

1999年を前にしたある日、私はラジオのニュースを聞いて自分の耳を疑った。ラジオは、中国政府が荒れた自然環境を回復させるために、今後50年にわたって木を植え、草の種をまいて「美しい山河」を取り戻すことを決定したと伝えていた。鼓動が速くなった。

 

1998年の夏である。中国では44年ぶりの大洪水が起こった。氾濫したのは長江と松花江で、中部の湖南省、湖北省、江西省と東北の黒竜江省、吉林省、内モンゴルが水に襲われ2,000人以上の死者が出た。家を失った人は黒竜江省だけでも216万人、全国では1,700万戸の家屋が損壊し、水害の影響を受けた人は日本の人口の二倍にあたる24,000万人にのぼった。

長江流域では、この30年の間に森林面積が半減し流域に残る森林はわずか10%になった。そのために土壌は日本の国土二つ分の面積が流出して30年前の二倍に増え、なお毎年24億トンが流れ出している。長江の流れは黄色く濁ってもはや「第二の黄河」になった。このままのペースで土壌流失が続けば、300年後には長江の全域がはげ山になる。そうなると貯水能力がゼロになった長江は少しの雨でも水と土砂が流れ出し、いま建設中の三峡ダムは何の意味も持たなくなる。

これらの原因は、森林伐採と土地開発にあけくれた結果であることを中国政府は知っている。だから、長江上流に位置する四川省政府は9891日から省西部の原生林伐採をやめた。これでパンダも生きのびることができるだろう。

 

政府の発表によると、中国の自然破壊の状況は、表土流出が国土の38%、砂漠化27%、草原荒廃14%で、破壊されずに残った自然はわずか21%にすぎない。自然環境を回復させる五十年計画は三段階で、まず2010年までに長江、黄河の上・中流域を対象に、人為的な要因による表土流出をストップさせ、すでに流出した60k㎡と砂漠化した22万k㎡を回復させ、新たに森林を39k㎡つくる。2030年までには、保全可能な土壌流出地域の6割以上と40k㎡の砂漠化した荒土を回復させ、新たに森林を46k㎡つくる。最終の2050年には、すべてのプロジェクトを終え、植林可能な土地はすべて緑化され、荒れた草原は全面的に回復された状態にするという。

これは二十一世紀に向けて発したおそらくは世界初の国家プロジェクトである。しかも五十年計画で自然を回復させるという宣言は、核廃絶や対人地雷全面禁止条約を批准し遵守すると宣言するよりも価値がある。なぜなら後者は国家間の利害や都合で反故にされる可能性があるが、前者の五十年計画を中国は必ず実行するだろう、中国は国家の方針として打ち出したことは万難を排して実行する国だからだ。

 

本書の著者袁清林が自然の歴史的変遷を明らかにし、その原因を分析し、環境保護のために人類が何をなさねばならないかを提言している内容は正しい。はからずも中国政府の今回の決定が袁清林の提言が間違っていないことを証明する結果になった。

 

今回訳出した第七章「有史期の気候の変遷と種の絶滅」と第八章「環境変遷の歴史と原因分析」のなかでの圧巻は、人口増加と環境悪化の関係について言及し、42年間で人口が九倍に増える結果をもたらした清、康煕帝の政策に対して厳しく批判していることである。康煕帝は「康煕字典」「全唐詩」「古今図書集成」を編纂させた文徳政治と、ロシアとネルチンスク条約を締結した武徳政治で評価が高いが、1712年以後増加した戸口に対しては永久に租税を徴収しない、と一見改革にみえる政策は、食糧不足とそれを補うための開発開墾をもたらし、清朝以後現在に至るまで環境悪化を増幅させているというのである。

 

訳者序文4- 2

 

京都大学の河野昭一氏は、退官を前にして、過去四十年ほど、日本や世界中のいろいろな地域を飛び回り、様々な生物たちを相手に研究に明け暮れてきた経験をのべる一文を、朝日新聞に寄せている。

「このわずか四十年の間にも、いや応なしに目に飛び込んでくるのは、世界中いたる所で引き起こされている余りにも大きな自然環境の変化である。それは正に激変と言わねばならない。」

「森はあちこちで伐られ、渓流は数え切れない砂防ダムでずたずたに寸断されている。湿原や干潟は埋め立てられ、川は巨大なダムでせき止められ、河岸、海岸は護岸工事でどこもかしこもセメントづけである。」

「大規模な自然の改変は、例外なく人間の生活活動の結果である。」

「地球上に生きる無数の生物たちとの共生を軽視し、自然からの一方的収奪に終始し、ひたすら経済成長と生活の利便性だけを無原則的に追い求めるならは、その結果、自然との間に生じたさらに大きな亀裂によって、自らの在在をその根底から脅かされることになろう。」

「文明とは一体何なのか。二十世紀が終わらんとしている今、改めて人類は問われている。」

河野氏のことばは日本、中国、南米などの地域性を越えて、この地球に何が起こっているかを明確に言い表している。だから人類は何をしなければならないか、その道を明確に示している。

干潟や湿原を埋め立てず、川を巨大なダムで堰き止めず、海岸をセメントづけにせず、森を伐らず、渓流を砂防ダムでずたずたにせず、山を平らにして人間が住まず、ということを始めなければならないのである。これは二十世紀が向かったベクトルとはまったく正反対である。二十世紀は、人類が自然と生物をわがもの顔に破壊した世紀であった。

向かうベクトルが正反対になるような大きな事業は、具体的には「政」、「官」、「民」の三位が一体となって行なわねばならない。そしてその方向を示す役割をになうのが「学」であろう。「学」は人間の魔物と自然の魔物との両方に立ち向かわねばならない。

 

 

第七章 有史時代の気候の変遷と生物種の絶滅

 

中国の古い文献の中には、気候学と生物季節学に関するものが多い。そのほとんどが過去二千年の間のことで資料も分散している。中でも種の分布とその変遷に関する材料は少なく、歴史地理学者や生態学者たちが研究と分析を進めているが、これについてはの気候の変遷の研究が最もすぐれている。また、今から二千五百年以上前の研究は主に考古学的資料によって研究するが、この方面でも竺は輝かしいお手本を示してくれている。竺可楨の「中国五千年の気候の変遷の初歩的研究」(『人民日報』1973619日)と、竺可楨、著『気象学』(科学出版社1973年第一版1980年第二版)は、古代の気候の変遷と種の絶滅に関する重要な文献である。

 

一 有史時代の気温変動

 

竺可楨は、古い文献の中に分散している豊富な気候学と生物季節学の資料をもとに、中国五千年の気温変化の傾向を系統的に分析し、わたしたちが歴史上の気候変動を理解する上でほぼ完全な概要を示してくれた。

彼は気候の変化を分析する際、研究材料の性質によって五千年の有史期を四つの時期に分けて次のようにいう。

 

(1)  考古時期(紀元前3000~紀元前1000年)

文化期の西安遺跡(60805600年前)と河南安陽の3000年前)の発掘によって明らかになったことは、当時の獲物の中にあった熱帯亜熱帯動物のタケネズミ、ノロジカ、水牛が、現在はどこにもいないということである。また殷墟の甲骨文からは、当時の安陽人が稲を植えるのは現在よりも一ヶ月早かったことが分かり、黄河下流と長江下流の各地の温度を対比すると、五千年前の仰韶から三千年前の殷代は温和な時代で、現在の平均気温よりも摂氏2度高く、月の平均気温は35度高かった。

(2)植物季節時期(紀元前1100年~紀元後1400年)

周朝が紀元前1066年に西安付近のに都した時、黄河流域には竹類が広範囲に生息していた。だが周初まもなく気候が悪化し、は紀元前903年と897年の二度にわたって結氷。春秋期(紀元前770年~481年)にまた温暖に変わりそれが戦国、秦、前漢まで続く。後漢の紀元の初めにまた寒冷気候となり、225年、が初めて結氷した。特に280年~289年の十年間がピークで、当時の年平均気温は現在よりも12度低かった。その寒冷気候が南北朝時代(420579年)まで続く。

隋唐時代(581907年)の七世紀中葉に気候が温暖に転じ、650年、669年、678年には長安の冬に氷雪がなく、梅や柑橘類を植えることができた。十一世紀に寒冷に転じ、特に十二世紀の初めは寒冷が激しく1111年には太湖が全面凍結しその上を車が走り柑橘類は全部凍死。1153年~1155年の蘇州付近では南の運河が結氷し、1170年には十月だというのに北京の西山は雪で覆われた。福州の茘枝は千年来二度凍死したが、二度とも十二世紀(1110年と1178年)である。十三世紀の初めと中頃に短期に温暖に転じたが、後半は寒冷となり、十四世紀は更に冷え込んで現在よりも寒冷であった。1329年と1353年には太湖が数尺の厚さに結氷して柑橘類が凍死し、1351年の陽暦十一月には黄河下流で流氷が流れた。これは今よりも一ヶ月早い。

(3)地方志時期(1400年~1900年)

 かつて665種の地方志によって太湖、、洞庭湖、漢水、淮河の結氷年代(十三~二十世紀)と近海、熱帯地域の降雪、降霜年数(十六世紀以来)の統計を出したことがある。その結果、わが国の暖冬は1550年~1600年と1720年~1830年で、寒冷冬期は1470年~1520年と1620年~1720年、1840年~1890年であることが分かった。世紀でいえば十七世紀が最も寒冷で十九世紀がこれに続く。江西のミカン、ポンカン園は1654年と1676年の二度にわたって全滅した。1650年~1700年の間には、太湖、漢水、淮河が四度結氷し、洞庭湖は二度結氷し、熱帯地区にも霜雪がたびたび見られ、北京の運河は107日間も氷で閉ざされた。今は56日間である。植物季節学的な遅早からも推量できるが、十七世紀中葉の北京の冬は今よりも2度前後低温であった。

(4)  計器観測時期(1960年以降)

中国科学院氷河隊の調査によって、1910年~1960年の五十年間は気温が上昇していることが分かった。天山の雪線が4,50m上がり、西部の氷河が5001000m後退し、東部の天山氷河が200400m後退し、同時に森林の上限も上にあがった。

 

 竺可楨は中国五千年の気候の変化を分析して次のような結論を出している。

     五千年のうち最初の二千年は、年平均温度が今よりも2度高く、冬一月の温度は35度高い。

     紀元前千年以降の気候には一連の変化があり、温度は上下に揺れ動いた。温度が最も低かったのは紀元前1000年、紀元後400年、1200年、1700年で、振幅の範囲は12度。

     400年~800年の期間では、五十~百年周期の小循環があり、温度の昇降範囲は0.51度。

 

竺可楨は気候の変化の原因を分析した結果、太陽の輻射と大気の環流とに密接な関係があると指摘した(「歴史時代の世界気候の変動」『人民日報』196157日)。一般的に現在では気候変化の原因を研究するときは、(1)太陽活動(2)大気の環流(3)水没面積(4)人類の活動、等の要因に注意しなければならない(張家誠「気候の変化」『百科知識』1981年第9期)。総じて歴史上の気候変化は、自然因子が決定し、同時に人類の活動能力が増加するにつれ、気候変化への影響も増大している。例えば、都市の大気汚染が作り出した輻射量、降水量、温度及び大気成分の変化は、人類活動が局部的地域の気候変化に対して大きな影響を与えた例である。中国と全地球の二十世紀の温暖化傾向は、二酸化炭素による温室効果にその原因があることは多くの気象学者が認めるところである(周富祥、金鑒明「新しい総合性科学―環境科学」『現代科学技術簡介』科学出版社1978年)。

この百年、化石燃料を大量に燃やし森林を加速度的に減少させたことが、大気中の二酸化炭素の量を劇的に増やした。しかもそれは人類の活動によったものであることは確かである。ここに二十世紀の気候の変化を研究する上での重要なポイントがある。

 

二 有史時代の湿潤状況

 

中国科学院『中国自然地理』編集委員会が編集した『歴史自然地理』は、花粉と胞子と最近五百年の文献をもとに、数千年来の湿潤状況の変化を分析している。

今から五,六千年前は、気候が温暖であったことと平行して比較的湿潤であったが、その後五千~二千五百年前の間に徐々に乾燥期に転じた。これは遼寧省南部と右翼中旗、北京、洞庭湖地区及び四川省の花粉と胞子の分析によって知ることができたものである。

気候は湿潤から乾燥に変わるものであるという傾向は、今から七百年前までずっと続いてきた。鄭斯中と張福春は、「わが国東南部地区の近二千年の旱魃と多雨の災害及び湿潤状況の変化の初歩的研究」(『中国自然地理・歴史自然地理』p17)で、地方志の中に見える36,750回の旱魃と多雨の記録をもとに中国東南地区の湿潤状況を分析して、紀元初以来水害は減少し、旱魃災害が増加したことを発見した。紀元0年から1000年までの間は、乾期は比較的短く、湿潤期は比較的長く、1000年以後は、湿潤期が比較的短く、旱魃期が増大した。鄭斯中等はこれを年表にし、五年を一単位として水害と干害の相対値を計算し、橫座標を年代、縦座標を湿潤指数で表し(水害回数の二倍と水害干害総回数の比は、0.02.0の間を変動)、近五百年の湿潤指数の変化図を作った。これによって、近五百年では、水害よりも干害の方が多く、十五世紀後半から十六世紀前半と、十七世紀と、十八世紀後半から十九世紀前半の、三回の干害期が出現していることが分かる。

同じく黄河流域でも、干害の発生は近四百年に頻繁に起こっている。

 

三 生物種の変遷と絶滅

 

(一)植物種子の地域性の変遷

 

以上の気候の変遷から分かるように、中国では過去数度の温暖期と寒冷期があった。そしていくつかの植物は、気候の変化によってその地域分布が変化した。

 

 

竹は温暖で湿潤な気候を好む。周代以前の気候は温暖で、黄河流域には大量の竹が植えられた。これは戦国秦漢代も同じであった。紀元前110年、黄河が(河南省濮陽)で決壊したとき、河南のの竹を伐って編んだ籠に石を詰めて塞いだことがあったが(65)、これは当時、河南の淇園の竹が多かったことを物語る。

唐、宋、元、明の温暖期は、河内(今の河南省博愛県)、西安、鳳翔(陝西省)でも竹を植えていたが、明末には完全にすたれてしまった。五千年の間に竹類分布の北限は、緯度にすると13度南に下がったわけである。(竺可楨「中国近五千年来気候変遷の初歩研究」)

 

柑橘類

 

柑橘類は亜熱帯で生育するが、マイナス8度の低温でも耐えることができる。隋、唐の温暖期に、西安の宮殿と西安南郊の曲池では柑橘類を植え、文献によると751年と841847年は果実をつけている。しかし現在の西安ではほとんど毎年の絶対最低温度はマイナス8度以下であるため、当然柑橘類は湖北省、湖南省に南下せざるを得ない状態である(同上)。

 

茘枝

 

茘枝は温暖多湿多光を好んで南方での生育に適しているため、現在では、広東省、広西省、福建省と台湾に多い。だが、唐代の温暖期には四川省でも大量に栽培していた。杜牧の七言絶句「過華清宮」(華清宮を過ぐ)に、

 

 長安回望繍成堆  長安より回望すれば を成し

 山頂千門次第開  山頂の千門次第に開く

 一騎紅塵妃子笑  一騎の紅塵に妃子(楊貴妃)は笑う

 無人知是茘枝来  人は是れ茘枝の来たるを知る無し

 

とある。この詩の中で早馬が楊貴妃に茘枝を届けたと歌うように、茘枝は四川省から来たのである。もしも広東省からならば、早馬を飛ばしても長安に着いた時には新鮮ではなくなっているし、なによりも楊貴妃は新鮮な茘枝を食べたかったのであるから(66)

 当時、四川省の成都と忠県ではたくさんの茘枝が植えられていた。

張籍の「成都曲」に、

 

 錦江近西煙水綠  錦江西に近づくに煙水綠なり

 新雨山頭茘枝熟  新雨山頭にふれば茘枝熟す

 

とあり、白居易が忠州刺史(四川省忠県)に任ぜられた時に詠んだ「茘枝をう」(種茘枝)詩に、

 

 紅顆真珠誠可愛  紅顆 真珠 誠に愛すべし

 白鬚太守亦何癡  白鬚の太守また何ぞ癡なる

 十年結子知誰在  十年にしてを結ぶも誰が在るかを知らん

 自向庭中種茘枝  自から庭中に向かいて茘枝を種う

 

とある。

茘枝の分布は気候の変化にともなってしだいに南へ移り、北宋の960年、茘枝の株は成都の南60km(北緯30度)でしか生育できず、南宋では、眉山の更に南方60kmでようやく茘枝を植えることができた。(しかし現在では再び眉山に茘枝があるが、これは気候の変化による。)北宋で寒冷に転じ、南宋で更に進んだのである。現在は南宋の時よりも暖かく、唐代よりも冷たい(王曙「楊貴妃が食したのは広東の茘枝か」『科学と未来』1980年第1期)。

気候の変化と人類の活動が与えた植物の絶滅に対する影響という問題は、今後深く研究すべき問題である。しかし、キョウドウ(空桐樹)、メタセコイア(水杉)、ギンスギ(銀杉)、イチョウ(銀杏)等の危機に瀕することになる植物は、第四紀氷河期にその変化が始まるが、事実上発生したのは地質時代である。つまり有史期の特に近代以降になって、人類の活動というものが植物種の絶滅に大きな影響を与えはじめるのである。

 

(二)有史期の動物分布の変遷と種の絶滅

 

有史期における野生動物の数と地域分布にも大きな変化があった。その原因は気候変動等の自然要因にあるが、人類の活動がその大きな要因となっている。

 

1孔雀

 

  孔雀は貴重動物で、今はわずかに雲南省の南西部にいるのみである。何業恒、文煥然の研究によると、有史期、孔雀は広範囲に分布し、長江流域やそれ以南にいたのみならず、『太平御覧』、『北史』の記載ではタリム盆地の西北でも群れをなして飛んでいたという。その主要な地域は次の三つである。

一 長江中流域、四川盆地、雲南省東北

二 五嶺の南(広東省、とその周辺地区、広西壮族自治区の北、西南、東南

  地区)

三 雲南省西南

 長江流域の孔雀は、戦国の楚の時代から晋代にいたるまでずっと記載があり、嶺南(五嶺の南)一帯の孔雀は前漢から南宋まで日常よく見る鳥の一種であった。広東省には十六世紀の六,七十年代まではいたが、西側では十八世紀の三十年代以後絶滅した。広西の西南と東南の孔雀は、明清時代に徐々に少なくなり、六万大山と十万大山の間にある霊山県一帯では二十世紀になると絶滅に向かった。雲南省西南部では漢から元までずっと棲息していたが、明清時代にはその分布の範囲が縮小している。

孔雀の分布範囲と数量は有史期になって急速に減少したが、その主な原因は人間に捕殺されたことにある。唐宋時代には孔雀を捕って食べる者が多かった。『太平広記』禽鳥、孔雀、羅州に引く唐、牛粛の『紀聞』には、「山谷の夷民は、煮てこれを食う」(67)と記し、清、劉靖の『順寧雑著』には、孔雀は「肉が細かく香りがあり、焙ったり炒めてよいが、食べ過ぎるのはよくない」と記している。薬効もあるがその尾羽を取って装飾に使うことが多い。『順寧雑著』に、「順寧(雲南省)の深山には頗る孔雀が多く、城守、都司たちは毎年上役への供え物として、両翼の下にある黄色の羽を数百、千と取って贈っていた」と記している(文煥然、何業恒「中国歴史時期の孔雀の地理分布とその変遷」『歴史地理』創刊号p132-139)。唐代中期の韋后とその娘安楽公主は大いに奇装異服を着て、百官がまねをしたため、狩猟の風が盛んとなり、長江から衡山の南にある五嶺までの間の珍禽異獣はほぼ捕り尽くされてしまったという(『旧唐書』巻三十七五行志)(68)。孔雀のような美しい鳥にとって、避けられない運命だったのだろう。

 文煥然たちはこれ以外にも、歴史上山村草地に対して行った開墾が孔雀の棲息地を破壊し、孔雀の減少と分布範囲の縮小の原因となったという。わが国南部の開発は、長江流域が最も早く、次いで珠江流域、そして最後に雲南の西南部という順である。孔雀の分布の移り変わりも大体これと同じで、犀や象に似て棲息する北限が次第に南下したのである。

 

2 野生のゾウ

 

野生の象は熱帯林、草原、広葉竹樹混交林で生活する大型の陸生動物で、現在中国ではわずかに雲南省のの密林にいるだけである。何業恒、文煥然の研究によれば、有史期の分布範囲は今よりもずっと広範囲で、華南、四川盆地、長江中流、下流域のみならず、黄河流域の河南、山東、河北でも野生象は棲息していたという。1930年代、河南省安陽の殷墟で象の骨と象牙が出土し、最近では河北省陽原県丁家堡のダムでも骨と象牙が出土したが、これは三,四千年前の夏、殷の時代に今の桑干河一帯に野生象が分布していたという証拠である。また春秋時代には、淮河下流の少数民族が魯公に「元亀象歯(大亀と象牙)」を献上しているが(69)、ここにも野生象がいたわけである(何業恒、文煥然「歴史時期の華北の野生象」『地理知識』1981年第7期)。

三国時代では曹沖が象の重さを計った有名な「象の故事」があるが(70)、これはこの時江南にはなお大量の野生象がいた証拠である。明末では、呉三桂の軍隊に輸送と乗用の手段に象を使った象軍があったが、これは当時湖南、広東、広西及び雲南には象がたくさんいたことを物語っている。ところが現在では雲南省に幾つかの群れがいるのみである(朱靖『自然保護と自然保護区』タイプ版)。

華北にも野生象がいた時代のことを上に述べたが、中国の有史期の気候変動の中でもこの時は比較的温暖な時期であった。温暖で湿潤な気候、豊かな森林と湖沼といった環境が、野生象の生活に適していたのである。

 だが残念ながらこの野生象は華北からいなくなった。その主な原因には二つある。一つは、春秋時代に気候が寒冷期に変ったために野生象が南に移動したことである。もう一つは、春秋時代以後に、封建制度の下での生産関係が確立して鉄製工具の使用が広まり、大規模な開発が可能となったために、野生象が棲息する森林、草原、沼沢地帯が日増しに減少し、野生象はやむなくよそに移らざるを得ず、その数が減少したことである。つまり、自然要因と人為的要因が相互に影響したわけだが、とりわけ人為的要因の影響が大きい(何業恒、文煥然「歴史時期の華北の野生象」同上)。

 

3 揚子江ワニと揚子江カワイルカ

 

揚子江ワニと揚子江カワイルカは長江中下流域にだけ生息する水生動物で、中国の保護動物の一つである。

もともと江南の湖沼に生息していた揚子江ワニは、過去には九江、漢口、安慶、蕪湖、当塗、鎮江、蘇州、上海などの広い範囲に分布していた。古くはこれを「」といい、殷墟の甲骨文にこの文字があり、戦国時代から清代までこのほかにたくさんの記述が存在しているが、現在その数は激減し、当塗、蕪湖、江蘇、浙江一帯では絶滅した。

絶滅の原因は、ワニの生息地である河と湖の浅瀬や沼沢の草むらが、開墾によって消滅したためであり、また人がワニを乱獲乱殺したためである。

歴史的には過去にワニを駆除した事があった。唐の韓愈が潮州刺史(広東省)の時に書いた有名な「鰐魚を祭る文」がその証拠である(71)。宋代でも石灰を投げ込んでワニを毒殺する事件が起こった。この時殺したのは大型で人を食うワニだったが、ワニは有害な生き物だという印象を後世の人々に与えた。だから揚子江ワニもきっと家畜や養殖魚、農作物に悪いことをするにちがいないと思って、人々は見つけたら殺すことをくり返し、数は益々減少したのである(銭金祥「『祭鰐魚文』から揚子江ワニを説く」『大自然』1980年第2期)。

 

揚子江カワイルカは、海洋性高等動物の歯鯨類(イルカ、シャチ、マッコウクジラ等)との競争を避けて長江に棲み、ただ一つ生き残った種で、すでに二千万年の歴史がある。中国特有のこの稀少動物は、現在では長江三峡より下流で生息している。

前漢に編纂された『爾雅』に揚子江カワイルカの記載があり、晋、宋、明、清でも多くの典籍がその形態の特徴と生息の習性を記述している。しかし、二百年余り前にこの動物はめったに見られなくなった。現在ではわずかに数群でその数は400頭に満たない(林克傑「長江のパンダー揚子江カワイルカ」『大自然』1980年第1期)。激減したことはまぎれもない歴史的事実で、その原因は何なのか、それはなお今後の研究を待つほかはないとはいえ、容易に予想されるのはこれまで人が不注意にカワイルカを捕獲してきたからであるということだ。そして、更に悲しいのは、今でもなおこの稀少動物を捕殺する人が絶えないことである。

以上の例から分かることは、有史期の動物の分布の変遷と数量の減少は、自然の要因を軽視できないとはいえ、その大部分は人類の活動が引き起こしたものであるということである。私たちは、多くの野生動物が庇護される場所は森林であることを知っている。森林の破壊が、森林で生息する動物を追い払い、挙げ句の果ては絶滅させるのである。湘江下流を例にとれば、二百年前にここの山林にはツキノワグマ、虎、豹、狼、ヤマイヌ、野豚、ヤマアラシ、カワウソ、センザンコウ(ありくい)などがいたが、森林が破壊された後はすべていなくなった。1948年の『醴陵県志』食貨志に記された、「乾隆県志に引く物産には、鹿やキンケイ(錦鶏)がいた。後に人が稠密になり土地が開墾されると、次第に豊かな森林と草地が失われ、それらは隠れ潜むようになった。狩猟は間断なく行われ、生き残るものがほとんどいなくなった。」という記述はまさしくその状況を説明したものである。(何業恒、文煥然「湘江下流の森林の変遷」『歴史地理』第二輯p133

湘江下流域のみならず、その他の地域でも、森林破壊がもたらした動物分布の変遷と減少の状況はほぼ同様で、人為的要因によるものが極めて大きい。

 

まとめ

 

ここ五千年の温度、湿度と動物種の分布状況の分析によると、中国の気候は温暖から寒冷に、湿潤から乾燥に向かっており(竺可楨「中国五千年の気候の変遷の初歩的研究」、中国科学院『中国自然地理』編集委員会『中国自然地理・歴史自然地理』)、動物種の分布は北方から南方に移っている(『歴史自然地理』)。

わが国の気候が温暖から寒冷に転じた時期は大体今から20002500年前のことである。いろいろな資料は、近二千年とそれ以前の気候にも寒と暖、乾と湿の小さな波があったことを証明しているが、総じて言えばどの研究の結論もほぼ同じである(『中国歴史地理』)。

20002500年前の温暖期には短い寒冷期間を含んでいるのだが、こうした短期の寒冷が、温暖を好むある種の生物を絶滅させたわけではない。しかしまた、その後気温が次第に低下していく過程の中にも、温暖な期間があったが、こうした温暖期が、寒冷化のために南に移動したり絶滅した生物を、再び生き返らせるということもなかった(『歴史自然地理』)。気候の変遷が動物種の分布と絶滅に与える影響は甚大であるといえよう。

有史期において、気温と湿潤の状況が変遷した主要な原因は、自然要因であって、人為的要因はあまり大きくはない。しかしながら、局所的な地域の例からすれば、人類の活動が気候を変化させることに影響を与えたといえる。例えば、人間による森林伐採と不適当な開発が水分循環のしくみを変化させ、旱魃を招いたわけであるから。

動物種の分布が変遷したり絶滅したのも、気候の変化による自然要因の影響を受けたためだけではなく、人類の活動の影響を受けたことが大きい。生産力の不断の向上にともなって、人類は野生の動植物を乱捕乱殺し、森林を乱伐し、ある種の動植物を絶滅に追いやる重大な原因を作った。また、開墾を目的とする森林伐採と湖沼干潟の干拓と田畑化は、ある種の生物の棲息地を破壊し、これら野生動植物を絶滅させる原因となった。環境保護の角度から見れば、私たちは経済活動をする際には、開発することが気候と動植物にいかなる影響を与えるかについて、充分に考慮しなければならない。とりわけ、過去の歴史から、過度の開発が気候の悪化を引きおこし、動植物の減少と絶滅をもたらしたことを学び、それを断じて避けなければならない。

 

第八章 環境変遷の歴史と原因分析

 

一 環境悪化の先触れと人類活動の影

 

四千年余りの環境変遷の歴史を縦覧してみると、その変化の大きさに驚く。

例えば、黄土高原は、周代に森林率は53%であったが、その後は樹木のない禿げ山になった。1949年の解放時になると森林率がわずか8%で、全国の水土流失面積は増大し、黄河流域はもちろん、長江流域でも水土が流失した面積は20%に達し、有史期の間に砂漠は12k㎡も拡大した。この広さは中国の総農耕地面積に相当する。加えて湖沼の消滅や、河の氾濫、水源の枯渇、気候の変化と動植物の絶滅などの状況はますます深刻なものとなり、中国の自然環境は悪化の一途をたどっている。

環境は一つの統一体である。生態系のそれぞれの因子は、孤立して無関係なのではなく、相互に依存と制約とをし合う関係にある。これまで見てきたように、歴史の経験からすると、水土の流失の激化、砂漠の拡大、河川の氾濫、湖沼の消滅、水源の枯渇、気候の変化、動植物分布の変遷と絶滅などのすべては、森林と植生の破壊と密接な関係がある。たとえ直接の関係がなくとも、間接的な関係がある。だからある意味では、大きく環境が変化するということは、森林植生が変化するということであり、それが一系列の環境条件を変化させてしまうことであり、それを知らせる先触れだといえる。だから私たちは、有史期の環境変化の原因を分析するとき、森林植生の変化がなぜ起こったのか、その原因を分析しなければならない。

有史期の環境変化の原因は多方面で且つ複雑である。人為的要素もあれば自然的要素もある。数千年来の気候の寒暖変化や種の変化や砂漠化は自然的な要素が大きい。しかし、森林植生の破壊とそれに伴う環境変化や水土流失、湖沼の消滅などは、まぎれもなく人為的な要素が引き起こした作用なのである。

これまでに森林破壊、水土流失、砂漠の拡大、湖沼の消滅及び、水源、気候、種の歴史的変動の原因について具体的に分析してきたが、環境に対する保護を欠いた人類の経済的政治的な活動が環境をひどく悪化させてきたわけである。例えば、封建統治者は豪華な宮殿と陵墓を建設するために全国各地の樹木を伐り倒してきたし、歴史上の大小の戦乱は無数の森林をだめにしてきた。また人口が増加し農業が発展し土地が開墾されるにつれて、森林は大規模に伐採されてきた。つまり、中国の森林は広範にかつくり返して破壊を受けてきたわけである。しかもその規模は益々大きく深刻になっている。加えて農業が発展するにつれて森林、草原、山地が開墾され、更なる耕地面積の拡大のために湖沼や海までをも干拓して田を作り大規模な水利建設を進めてきた。それが不適正に行われたために深刻な環境破壊が進んでしまったのである。

 

二 歴史上の環境分期

 

人類の活動、特にその経済活動が、中国有史期において環境を変化させた原因の最たるものであることを述べてきた。しかし各時代および各地域によって経済活動の内容は異なり、環境への影響も異なり、各時代の環境質量も差が大きい。現在理解されている歴史的環境状況によって、黄河中下流域の歴史的変遷を区分するとおおよそつぎの五段階に分けることができる。即ち、(一)先秦 (二)秦、前漢 (三)後漢、三国、両晋、南北朝、隋 (四)唐、五代、宋、金、遼、元 (五)明、清、民国である。

 

(一)環境保護の黄金時代

 

先秦時代特に西周の時、黄土高原は大きな森林草原で森林面積は50%を越え、黄河の水は澄み今のように水土流失はなかった。南方は言うに及ばず山東、河南一帯も全域に草木が生い茂っていた。現在の砂漠、砂漠、砂漠、砂漠、タクラマカン砂漠は、或いは草原であり、或いは水生植物豊かなオアシスであり、或いは多くの湖をもった水源地であって、決して今のように多くの砂丘におおわれていなかった。人の居住に適した環境であったのである。アメリカの学者アイカホルムの説によれば、周代以前に農業が発展したことによって森林が破壊されたということだ。彼は言う、「フェニキア人が定住する前、ひとびとは中国北部の肥沃で森林が密生した黄河流域に移り、数世紀にわたって需要に迫られた際限のない農田を開き、ついに華北平原の大部分を無林地帯にした。だがこの傾向は周朝872年の長い統治の間(紀元前1127年~紀元前255年)は部分的に制止された。この時代は間違いなく世界で最初に「山林局」を作り森林保護が必要であることを重視した、自然保護の黄金時代である。しかし周朝滅亡以後の2200年間は、森林を広範に破壊することが新しい準則となった。」(アイカホルム『土地は失われている』p27、科学出版社1982年中国語版)。ここにいう周朝以前に森林破壊があったということについての根拠は不明だが、周代が山林保護の「黄金時代」だというのは正しい。

周代に黄金時代をむかえたのには二つの要素がある。一つは、当時の人口は推定2,000万人と少なく鉄器具があったとはいえ生産力が低かったことである。春秋時代ではなお「四竟の田、曠蕪にしてくにうべからず」(四方の土地は荒れていて開くことができない)(『墨子』耕柱第四十六)という状況であったが、戦国時代になると「土狭くして民し」の局面が現れるとともに、強大な秦国には民をかり出して開墾させるという、より発展した措置があって、局部的にではあるが環境が悪化する状況は避けられないことであった。しかし総じていえば周代には農業生産の発展によって森林破壊がなされ環境が悪化するということはなかった。もう一つは、周代では山林河川沼沢の保護を重視したために、その保護を実施する厳格な制度と厳密な管理機構があったことである。したがってこの時期はよく保護をしただけではなく保護思想と保護理論とを生みだし、まさに中国古代環境保護の黄金時代であった。

 

(二)第一次悪化時期 秦、前漢

 

 秦から前漢にかけて中国は長い分裂を経て統一へと向かい、人口も倍増した。前漢の平帝元始二年(西暦2年)には全国で1220万戸、5959万人に達し、食糧問題を解決するために開墾は日に日に進んだ。秦代では数万の民をオルドスに移して開墾し、前漢では開墾の規模が空前に拡がって827万頃(55k㎡)になった(翦伯賛『中国史綱要』第一冊p113)。現在の砂漠は前漢に開墾されたものである。武帝の元朔二年(紀元前127年)には朔方郡を置き、「開田の官と斥塞の兵卒六十万人が屯田」(『史記』巻三十平準書)し、「関東の貧民を移して匈奴の河南の地のにおらせてこの地を満たし」(『漢書』巻九十四上匈奴伝)、ここに「黄河や谷川を引いて田を潅漑」(『史記』巻二十九河渠書)するという軍民両方の開墾規模は甚だ大きかった。朔方郡の人口は14万人、烏蘭布和砂漠四県の人口は5万人以上でたくさんの食料を生産し「辺地にも米穀」(『漢書』巻九十四下匈奴伝)の豊かさがあった(童立中、張衛国「オルドス西部の人造砂漠」『百科知識』1981年第11期)。漢の武帝は大規模に黄土高原を開墾することによって遊牧地区を農業地区に変え、ここに70万人を移したのである。(史念海「黄土高原及びその農林牧畜地区の分布の変遷」『歴史地理』創刊号p125

しかし江南の大部分の地区は依然として「木を伐って穀物を植え、草を焼いて種を蒔き、草を焼き払って水をそそぎ入れて耕作をする72)をしており、その極めて遅れた生産方式で土地を開墾していた。(翦伯賛 同上)

秦、前漢時代に黄河中流域での開墾と森林破壊と水土流失はひどくなり、支流は濁り始め、黄河本流は黄濁し、下流の河床は上がって地面よりも高い天井川となり、頻繁に氾濫して流れが変わる深刻な局面を迎えた。この時代はわが国環境史における第一次悪化時代である。

 

(三)回復時期 後漢~隋

 

後漢から隋は戦乱が頻発し人口が大幅に減少したことによって、環境が比較的に回復した時期である。中国を統一した西晋武帝の太康元年(280年)の人口はわずか1,616万人で、三百年後の隋煬帝の大業五年(609年)にようやく4,602万人に回復した。多くの土地は荒廃し耕作する人もいず、西北方面から少数民族が移動して来たために黄河中流域の農業地区は縮小して草原が拡大し、森林は破壊されはしたがさほど深刻なものではなかった。この時期は黄河中流域の植生が回復し、水土流失が納まり、水とともに流れる泥砂が減少して、黄河下流は比較的長期にわたって安定した時期であった(史念海「黄土高原及びその農林牧畜地区の分布の変遷」『歴史地理』創刊号p125。その期間は約六百年である。

 

(四)第二次悪化時期 唐~元

 

唐、宋、金、元の七百年余りの間は人口が3,000万人を割らなかった。唐玄宗の天宝十四年(755年)の900万戸、5,300万人は、五代の戦乱を経て宋、神宗の元豊三年(1080年)に3,300万人となったが、その三十年後の徽宗の大観四年(1110年)に4,673万人に増え、元の至元二十七年(1300年)には5,884万人に達し、過去最高水準だった前漢時代に近づいた。唐初の開墾地は620万頃(42k㎡)で、史書には「開元、天宝の中、耕す者は益ます力め、四海の内、高山絶壑、も亦満つ」と記している(翦伯賛『中国史綱要』第二冊p173)。このように「高山絶壑」をも開墾したことは、環境に深刻な事態をもたらさざるをえなかった。唐代、黄土高原は牧畜から農耕に変わり、一部の牧畜地と半農半牧地を除いては大部分が農耕地になった。唐朝廷の方針は大規模開墾で、これは地方の官吏と辺地に駐屯する将軍にまでも大きく影響した。史念海が引くように『旧唐書』には、が「寧節度使(陝西省彬県)となり……辺境の地を敵から守るために、兵卒と貯蔵穀物が多いことを上策として、軍の兵卒を募集して屯田を開き、年に三十万石の穀物を収穫した」こと(巻百七十七畢伝)、が「節度使(青海省楽都)、支度使、営田使、使(青海省楽郡)を加えられて、拠点を(甘粛省)に移した。……李元諒は烽(のろし台)を多くし、城を増やし垣を修理し、自ら兵卒を率いて労苦と安楽を共にし、林を切り草を刈り、イバラとハシバミを切り、乾くのを待って、焼き払い、数十里四方を皆美田にした。そこを兵卒に園芸させて毎年数十万石の粟と大豆を収穫した」こと(巻百四十四李原諒伝)、が「検校、左散騎常侍、涇州刺史(甘粛省涇川県)となって、屯田五千頃(331k㎡)を置いた」(巻百六十一楊元卿伝)ことがみえる。また『新唐書』にも、「夷狄の進攻激しく、宣宗が涇原節度使(甘粛省涇川県)としてにこの地を治めさせたとき、裴識は、城塞を修理し、武器を準備し、屯田を開いた」(巻百七十三裴識伝)、「検校、工部尚書、涇原節度使となった周宝は、農耕作業に務めて、二十万石の食糧を集め、良将と称された」(巻百八十六周宝伝)とある。とりわけ注目に値するのは、今の山西省西部の黄河との間は、前漢では、まだ森林が多く人口が少なく県を設けて間もない所であったが、唐代になると、ここに七州を設けの東側と流域にはを設けてその下に十の県を付けたことで、これは現在よりもなお四県多く当時の田地の多さと人口の稠密さをうかがうに充分である。このように農業地区の拡大と水土流失の甚大は加速度的に平原を消滅させ渓谷を延長させたのである。(史念海同前)

砂漠の統万城、城等の古城は唐代以後徐々に流砂に埋もれていった。また唐代後期は黄河が頻繁に氾濫した時期で、宋朝三百年の間に50回も決壊したが(『宋史』河渠志)、このことと唐代に黄土高原の植生が破壊されたこととは決して無関係ではない。宋代にはまた江南では大規模な(防水堤で囲まれた水田)と山田(丘陵地の田畑)が湖沼の面積を縮小させ、多くの山に植生を失わせ、水土流失を加速させた。南宋では北方の国土を失ったため南部での低地に堤を築いて水を遮り作った田地)が更に増え、太平州の当塗、蕪湖両県(安徽省)では田の周囲は480余里に達し、全農耕田の8090%を占めた。元代でも屯田軍12万戸と5万人余を配置して177,889頃(1.2k㎡)を開墾田とし、開墾地は北は嶺北、和林(外蒙古)に、南は海南、八番(貴州省)に及んで、環境に対する圧力が拡大された。加えて元代は歴代王朝唯一の山林河川沼沢の保護機構が設置されなかった時代でもある。

つまり、唐代から元代は黄河流域の南方森林区が大幅に縮小して水土流失が激化し、砂漠化の速度が加速し、決壊が頻発し、湖沼が縮小し、すべての環境にわたって状況が低下した中国二度目の悪化時期である。

 

(五)深刻に悪化 明清以後

 

明清から解放前に至る六百年余りは、わが国の環境が急激に悪化した時期である。この時期の特徴はまずは森林が壊滅的な破壊を受けてその数量が激減したことである。黄土高原を例にとれば、渭河上流の森林、陝北の、内蒙古のオルドス高原と陰山、山西の、五寨、保德、偏関、河曲などの森林と秦嶺北側の森林は、明清代、とりわけ清代に大きく破壊された。北京地区と湘江下流の森林も同様である。またこの時期の水土流失はかつてないほど深刻なもので、これが流域の森林を破壊した直接の原因となっている。水土流失の悪影響は黄河の含砂量の増加に現れ、黄河の決壊は激増した。明朝二百七十年の間に黄河の決壊は127回を数え(『明史』河渠志)、清朝二百余年の間には180回余りを数えた。更に、西北、華北地区の漢唐の開墾地と古城は、この明清時代に全てが流砂に呑み込まれてしまった。砂漠、烏蘭布和砂漠、毛烏素砂漠もほぼ同じ状況で、東北の砂漠は清代に開拓されたことによって、短期間のうちに出現した砂漠である。また、湖沼が消滅しある種の生物が絶滅したのも明清以後のことである。

明清両朝は多くの歴代王朝と同様、「工部」の下に山林川沼を管理する「」(73)を設けたが、なぜかくも環境破壊が進みその速度が速くなったのだろうか。その原因は社会経済の発展にある。とりわけ人口の増加と開墾地の増加にある。

 明初の洪武二十六年(1393年)、全国の人口は歴史上最高の6,055万人に達し、民間の食糧と軍の食糧は荒地を開墾した土地からの収穫に頼っていた。この時各州県の開墾耕地は「少なくて1,000畝、多くて20万畝」(0.6k㎡と1,332k㎡)で、政府は一部の帰順民、罪人と土地のない農民とを組織配分して屯田の耕作にあたらせた。例えば、洪武三年(1370年)には、蘇(蘇州府)、松(松江府)、嘉(嘉興府)、湖(湖州府)、杭(杭州府)の農民4,000余戸を臨濠府(安徽省)に移し、洪武四年(1371年)には、今の内蒙古と山西省北部一帯の「砂漠遺民」32,000余戸を北平府(北京市)に移し、洪武十五年(1382年)には、広東省増城市等の帰順民24,000余人を泗州(安徽省)に移して、耕作させた。このほかに山東の登州、莱州の農民を東昌府に移し、山西の沢州、安の人民を北平府に移し、江西の農民を雲南、湖北、湖南に移した。これを「民屯」という。これ以外に「軍屯」「商屯」がある。軍隊は辺地では守備三分、屯田七分、内地では守備二分、屯田八分の割で活動し、穀物を上納して軍糧としたがこれを「軍屯」という(『明史』巻七十七食貨志)。また政府は、塩商人が塩を販売するには必ず先に食料を辺地に送るべし、と規定したため、塩商人は辺地で人を募って開墾し、現地で農耕税を納めて、政府の「塩引」(販売許可証)と引き替えに塩の販売を占有したが、これを「商屯」(74)という。

洪武十六年(1383年)の統計によれば、新しく開墾された田地はおおよそ1805,216頃(12k㎡)に達し、当時の全国の耕作地の半分を占めた。十年後の1393年には、全国の官田、民田は新旧開墾田を併せて8507,623頃(567,000k㎡)で、これは前漢を超え、元末よりも4倍余り増えた。(翦伯賛『中国史綱要』第三冊p172-3

史書に「屯田天下に遍くして、西北最たり」というごとく、明代には北の国境地域に九辺鎮(遼東、薊州、宣府、大同、山西、延綏、寧夏、固原、甘粛)を設けた。黄土高原にあった(陝西省楡林県)、太原(山西省)、固原(陝西省)の三鎮には、民、軍、商がおおぜいやってきて開墾し、それを監督する地方官吏と駐留軍将がいて、大同(山西省)は当時大いににぎわった。

『明史』に、が「大同には要害堅固なところがないので…、又辺境を守るために穀物を貯蔵することを司り、近くのの砦三十一カ所に、延長五百余里(280km)にわたる耕地を開いて肥沃の田数十万頃を作った。そして朝廷に、軍が耕作に当たり、租徭(租税と力役)を復活することを奏請した。」(『明史』巻二百詹栄伝)とあり、またが「以西から山西のまでおよそ四百余里(224km)にわたって楼台千余を増築した。屯田四万余頃を開き軍一万三千有余を増やした。」(『明史』巻二百十一周尚文伝)とあるが、史念海はこのことから、明代の開拓生産は同時に乱開拓の推進であったという。たしかに明、は「山西の三関の屯田を清理する疏」の中で、「即ち山の懸崖峭壁は、尺寸も耕やさざる無し」といっている(75)

このような際限のない開拓生産は、一人あたり100畝(6.67ha)もの耕作を必要とさせるから、どうして精緻な耕作ができよう、ただ山林草原を破壊させて一時の収益を得るだけで、長期の耕作ができるものではない。その後天順七年(1463年)の全国の土地の統計によれば耕作地はわずかに429万頃(286,000k㎡)で、ごまかしが多いとはいえ多くの耕作田はある時期は耕作されたがその後は捨て置かれたことは確かである。

清朝は人口増加を奨励する政策をとり、全国の人口を爆発的に増加させた。雍正二年(1724年)に、全国の人口は2,500万人、耕地は683.7万頃で(すでに明朝後期よりかなり増加)、乾隆三十一年(1766年)までのわずか42年の間に人口は九倍に増えて、二億の大台を突破する2900万人となり、耕地は741.4万頃に増えた。(中国社会科学院近代史研究所『中国近代史稿』第一冊p18人民出版社1979年)それから83年後の道光二十九年(1849年)、人口は更に二倍の41,299万人に達した。(『1980年百科年鑑』)

これらの数字を見るだけで、当時の人口増加と土地開発、社会生産力の発展がいかに迅速であったかがよく分かる。清代の人口増加は康煕五十一年(1712年)に宣布した「聖世の滋丁、永えに賦を加えず」「聖世滋丁、永不加賦」(御代に増加した人口に、租税を加えない)(76)と直接の関係がある。これ以前は「丁徭銀」といって人頭によって税を課す方式であったが、康煕の宣布以後は定数外に子供が生まれても税を取り立てなくなり、それが自然と多生多育を奨励することになった。このようにして人口が増加したために食糧の供給が追いつかなくなり、再び開発開墾に走るはめになる。順治から乾隆までの百年余りの間に全国の耕地面積は上昇し続け、明万暦年間の耕地面積をはるかに超えた。清朝政府は西北のの地で更に屯田を押し進め、乾隆三十一年には天山北路の軍屯、民屯(戸屯)はあわせて32.4万畝(21,600ha)、乾隆四十二年(1777年)にはそれが50.7万畝(33,800ha)に増えた。烏魯木斉では漢族、族の原耕地はもともと63万畝(42,000ha)あったが、それが乾隆五十三年(1788年)には更に27.3万畝(18,200ha)増えた。

 当時清朝は東北、内蒙古を立入禁止地区にしていたが、山海関(河北省)以南は人が多く土地が少ないために、生活に迫られた多くの人は山海関を越え長城を越えて開墾耕作した。雍正朝四、五年間の統計によると奉天(遼寧省)の旗地(満州族に分け与えた土地)の民田は合計85,300頃(12,794ha)だったが、それが乾隆四十五、四十六年には156,700頃(23,503ha)になり、吉林の民地(民有の田畑)の場合は乾隆十三年(1748年)の1,580頃(237ha)から11,000頃(1,650ha)に増えた。康煕年間には、数十万の貧民が山東、山西、河北、陝西の各地から外、内蒙古に流入して荒地を開墾し、乾隆年間以降では、熱河、、寧夏の開墾地が益々増え、の遊牧地区だけでも265,000頃(39,748ha)を開墾した。(翦伯賛『中国史綱要』第三冊)

 清朝政府は荒地の開墾を禁止する地域を区分けしていたが、一般の屯田に対しては積極的に奨励した。康煕年間に開墾後に起科(開墾農田に課税すること)する年限を610年にゆるめたために、東北、華北、西北のみならず、雲南、貴州、四川、広東、広西、福建、湖北、湖南、浙江、江西、台湾の地でも開墾しないところはなかった。このような開墾は生産量をあげ辺境の守りを固めるという効果はあったものの、環境に対する破壊を深刻なものにしていった。したがって康煕年間に人口を増加し土地を開墾することを奨励した政策に対しては、その功罪を再評価しなければならない。清代以後は人口の基準数が大きい上に、減少が少なく、増加の速度が早いために、環境に対する圧力は依然として増大し、もはや規制することは難しい。康煕帝はその責任を負わざるを得ないだろう。

 

 

三  人口増加と環境

 

 以上、中国の環境変遷の五段階について大まかに分析してきたが、これから考えると、環境変遷の原因は複雑多様であるとはいえ、主には人類の経済活動が、その中でもとりわけ農業活動が最も大きく影響していることが分かる。環境質量が悪化した時期にはすべて、農業の開墾活動が激しくなっている。その逆もまた同じである。明清時代はその農業的開墾がいまだかつてないほど激しくなり、環境もまた急激に悪化した。また人口の大量増加には、必ず土地の大量開墾がともなっており、開墾活動は人口関数に等しいということがいえる。

 中国環境保護の黄金時代(先秦)と相対的に回復した時期(後漢~隋)は、どちらも人口が比較的少ないか人口の増加が緩慢だった時期で、環境が悪化した二回の時期(前漢と唐~元)は、人口が多いかその増加が急だった時期である。そして深刻に悪化した時期(明清以後)は、人口が多いだけでなくそれが飛ぶように速く増加した時期である。このように環境と人口には密接な関係があるのである。

 環境変遷の歴史を研究することは、現在の四つの近代化建設(農業、工業、国防、科学技術)のために古きをもって今に役立てることで、それを具体化することである。われわれは歴史から真剣に教訓を学びとらなければならない。

 環境を保護するためには、人口の増加を制御することから始め、社会、経済の発展と同時に生態の均衡を維持することに細心の注意を払わなければならない。そうすることによってはじめて環境汚染と環境破壊を防止することができ、人類は持続的かつ永久的に進歩発展することができるのである。

 

 

まとめ

 

 歴史上わが国で最も環境が変化した地域は黄河中、下流域で、その悪化は秦漢時代から始まった。環境の悪化はまず森林、植生の破壊から始まり、それが水土流失、砂漠化、河川の決壊、河流の移動、湖沼の消滅など一連の変化をもたらした。したがって環境の変遷過程を研究するには森林、植生の変化から手を付けることが必要である。

 環境悪化の原因は複雑で、自然的要因もあれば人為的要因もあるが、多くは人為的要因が引き起こしたもので、人為的要因のなかでも経済活動の影響が最も大きい。

 環境の歴史は先秦から始まり、<良好>→<第一次悪化>→<回復>→<再悪化>→<深刻悪化>の五段階を経るが、これと農業生産の活動とは密接な相関性がある。

 歴史上において<人口>―<農業活動の規模>―<環境質量の変化>、というものを縦覧すると、前者が後者に影響を与える図式になっている。つまり環境と人口増加との関係が最も大きい。だから保護政策や保護措置をとる上で、この関係を無視するわけにはいかない。

四つの近代化を実現する環境を守るためには、歴史上の経験と教訓をしっかりと記憶し、正しく発展するための戦略を立て、利用を合理的にし、自然資源を保護し、環境汚染と環境破壊を防ぐだけではなく、とりわけ、人口抑制を進めるという根本的な所から環境への圧力を軽減する必要があるわけである。

 

 

<注>

 

(65)瓠子の決壊、淇園の竹:漢武帝の元光年間(前134~前129年)に黄河が瓠子(河南省濮陽)で決壊し、武帝は二十数年後の元封二年(前109年)に汲仁と郭昌に命じて決壊箇所を塞がせた。その際、淇園の竹を編んで石を入れ堰とした。『史記』巻二十九河渠書、巻十二孝武本紀、『漢書』巻二十九溝洫志、巻六武帝紀に見える。その時武帝が作った歌「瓠子歌」が『史記』河渠書にあり、『楽府詩集』巻八十四にも収められている。

 『史記』河渠書にはこうある。「黄河が瓠子で決壊してから二十余年、実りのないことが何年も続いた。天子は汲仁と郭昌に命じて人夫数万人で瓠子の決壊箇所を塞がせた。天子は自らその地に行き、群臣に命じて将軍以下は皆薪を背負って決壊箇所に置かせた。この時、東郡では草を焼いたので薪柴が少なく、淇園の竹を伐って(揵)とした。」

 ここに登場する「楗」(揵)ということばの解釈をめぐる諸説を紹介しておこう。劉宋、の集解は魏、如淳の説を引いて次のようにいう、「樹竹塞水決之口、稍稍布挿接樹之、水稍弱、補令密、謂之(揵)。以草塞其裏、乃以土填之。有石、以石為之。」「竹を植えて水の決壊箇所を塞ぎ、徐々に敷き詰めるように植え、水が弱まれば、もっと密生させる、これを(揵)という。草で内側を塞ぎ、土で補填し、石が有れば石でそれをする。」これに対し唐、司馬貞の索隠は、「(揵)者、樹於水中、稍下竹及土石也。」「(揵)とは、水中に植えて、竹及び土石を落として堰を作ること。」という。

一方、瀧川亀太郎『史記会注考証』は、清、兪正燮の『癸巳類稿』と清、沈欽韓の『漢書疏證』の論考を紹介している。兪正燮の論考、「如淳は小さい堰を作る方法をいっているのであって、決壊を塞ぐ方法をいっているのではない。原文に「薪柴少」とあるが、草でその内側を塞いだのではない。『漢書』溝洫志に、建始四年黄河が決壊し、王延世が竹を落として塞いだ、その長さ四丈、大きさ九囲で、小石を盛り、両船で挟んで載せた物を落とした、とあるのが、竹を落として(揵)とした、ということである。」沈欽韓の論考、「『元和志』に李冰が揵尾を作って堰とし、長江の決壊を防いだ、竹を裂いて籠を作り、その直径は三尺、長さ十丈、石を中に詰め、それを積み上げて水を塞いだ、とあるのが、竹を落として揵とする方法である。」

 

 当時漢の武帝は「瓠子歌」で、工事が容易に完成しないのを悲しみ次のように歌った。

 

河湯湯兮激潺湲     河は湯湯として激してたり

北渡迂兮浚流難     北に渡迂して浚流 難し

搴長兮沈美玉     長(竹の縄)をり美玉を沈め

河伯許兮薪不属     河伯(河の神)許せども薪かず

薪不属兮衛人罪     薪属かざるは衛人の罪なり

焼蕭條兮噫乎何以禦水  焼いて蕭條たり噫乎何を以てか水を禦がん

林竹兮菑     林竹をして(荒石)をにし

宣房塞兮万福来     宣房(瓠子の地)塞がって万福来たらん

(66)楊貴妃、茘枝:『資治通鑑』巻二百十五、唐紀、玄宗、天寶五載に、「妃欲得生茘支、歳命嶺南馳駅致之、比至長安、色味不変。」「楊貴妃は新鮮な茘枝を欲しがり、毎年嶺南(広東省)より早馬を飛ばして持ってこさせたが、長安に着いても色と味は変わっていなかった」とあるが、胡三省の注には、「自蘇軾諸人、皆云此時茘支自州致之、非嶺南也。」蘇軾などの説として、当時の茘枝は四川省のから来たもので嶺南(広東省)からきたのではないという説を挙げている。 

  南宋、王象之『輿地紀勝』巻百七十四、州、風俗形勝及び古迹に、「地産茘枝」、「妃子園 在州之西去城十五里、百余株顆肥内肥。唐楊妃所喜。一騎紅塵妃子笑、無人知道茘枝来。謂此。当時以馬遞馳載、七日七夜至京。」州は茘枝が多く、楊貴妃が食するために馬で運び、七日七夜で長安に着いた、とある。

(67)孔雀:唐、牛粛の『紀聞』には、「羅州(広東省)の山中に孔雀が多く、数十羽が群れて飛んでいる。雌は尾が短くて金色の羽が無く、雄は生まれて三年で小さい尾が生え、五年で大きな尾羽になる。… 山谷の夷民はこれを煮て食べる。味は鵞鳥に似ていて、百毒を消す。」とある。

(68)韋后、安楽公主:『旧唐書』巻三十七五行志に、「中宗の娘安楽公主は尚方官に毛の裙衣を織らせた。百鳥の毛を合わせたものだが、正面から見て一色、横から見ても一色、日中でも一色、日陰でも一色に見え、しかも百鳥の姿がその裙衣の中にはっきりと見えた。それを二着作り、一つを母の韋氏に献じた。値は百万。… 安楽公主が毛の裙衣を作ってからは、百官の家では多くそれを真似した。長江と五嶺の間では奇禽異獣の毛羽はほとんど捕り尽くされてしまった。」とある。

(69)元亀象歯:『詩経』魯頌、水に、「憬たる彼の淮夷、来たりて其のを献ず。元亀象歯、大いに南金をる。」(強俗な淮河の民が、服し来て宝物を献じた。大亀や象牙、また南方の黄金を贈った。)とあることをさす。

(70)象の重さ:『三国志』巻二十、鄧哀王沖伝に、「孫権が巨象を送り届けてきたことがあった。曹操はその重さを知りたくて、方法を臣下たちに訊ねたが、だれもその原理を見つけだすことができなかった。その時曹沖が、『象を大きな船の上に置いて、水あとがついている所にしるしを付け、それと見合う重さの物を載せれば、計算して分かります。』と言った。曹操はたいそう喜びすぐに実行した。」という、故事がある。

(71)揚子江ワニの駆除:韓愈は「祭鰐魚文」の中で、潮州刺史(広東省潮州市)として、この地に繁殖するワニに対して三日以内に南の大海に出ていけ、さもなくば皆殺しにするぞ、と宣戦布告するさまをユーモラスに描いている。ワニは、「付近の民衆や家畜、熊、豚、鹿、を捕食してぶくぶくと肥り、子孫を増やしている」と述べ、「今日ワニと約束を交わす。三日以内にお前たち種族のすべてを引き連れて、南方の大海に去れ。三日でできなければ五日以内。五日以内にできなければ七日以内だ。七日でもできないのなら、もはや移住する気はなく、私の忠告を無視したと見なして、皆殺しにする。私は、有能な役人民衆を選んで強弓毒矢を持たせ、ワニを殺し尽くすまで手を休めない。後悔するなよ。」と結んでいる。

(72):火耕水耨:『漢書』巻六武帝紀に、大洪水の被害を前にした武帝が元鼎二年(前115年)秋九月に発した詔に、「今洪水は江南に移り、冬至が迫っている。朕は民が飢え凍えて生きられないのを懼れる。江南の地に火耕水耨をさせ、巴蜀の粟を江陵に送らせる」(朕懼其飢寒不活。江南之地、火耕水耨、方下巴蜀之粟致之江陵)とあり、巻二十八下地理志下には、「楚には長江、漢水の川沢山林の豊かさがあり、江南は土地広く、火耕水耨の耕地がある」(楚有江漢川沢山林之饒、江南地広、或火耕水耨)とある。

(73)虞衡司:山林川沢を司る官。「虞衡」は『周礼』天官、大宰に「九職を以て万民に任ず、三に曰く虞衡、山沢の材を作る」(以九職任万民、三曰虞衡、作山沢之材)、鄭玄注に「虞衡は山沢を掌る官、山沢の民を主る者なり」(虞衡掌山沢之官、主山沢之民者)、唐、賈公彦疏に「案ずるに地官の山沢を掌る者をこれ虞と謂い、川林を掌る者をこれ衡と謂う。則ち衡は山沢を掌らず。而して『虞衡、山沢を作る』と云いしは、互挙して以て山沢は川林の材を兼有することを見わさんと欲すればなり。」(案地官掌山沢者謂之虞、掌川林者謂之衡、則衡不掌山沢、而云虞衡作山沢者、欲互挙以見山沢兼有川林之材也)という。「虞衡」は周以来、山林川沢を保護することを職務とした。明初にこれを「虞衡司」と改め、山沢、橋道、舟車、織造、券契、衡量のことを掌った。

(74)商屯:『明史』巻七十七、食貨志に、「明初に塩商を各辺に募りて開中せしむ、これを商屯と謂う」「明初、募塩商於各辺開中、謂之商屯」とある。塩商人を辺地に集めて開中させることを「商屯」といった。「開中」とは、明朝政府が商人に食糧を辺塞の地に運ばせ、そのみかえりとして塩を運んで販売する権利を与えたことをいう。

(75)尚鵬「清理山西三関屯田疏」:原書では「《明経世文編》説“即山之懸崖峭壁、無尺寸不墾”。」と、『明経世文編』全五百四巻(明、陳子龍等輯)をあげているだけだが、調査の結果このことばは『明経世文編』巻三百五十九、中丞摘稿、巻三、奏議にある尚鵬の「清理山西三関屯田疏」のなかで述べられたものであることが判明した。従って訳出のさいは尚鵬のことばとして訳出した。(調査に当たっては、広島大学文学部中国文学科武井満幹氏の協力をえることができた。ここに記して謝意を表しておきたい。)

このことばの前は、「最近山西の三関のひとつ寧武関に入って、山が鋤かれて田となり一面に麦畑が広がっているのを見てひそかにうれしく思いました。更に西に向かい黄河を渡って永寧(山西省)を経て延綏(陝西省)に入ったところ、そこでは山の懸崖峭壁まで耕されていないところはありませんでした。」「頃入寧武關見鋤山爲田。麥苗満目。心竊喜之。及西渡黄河。歴永寧入延綏。即山之懸崖峭壁。無尺寸不耕」と続く。

また、尚鵬は「清理延綏屯田疏」でも、「私が永寧州(山西省)から黄河を渡って西の方延綏(陝西省)に入ったところ、至る所みな高山峭壁でそれが数百里にわたって連なっていましたが、土民が農業と牧畜をすすめて山を鋤き田畑を作っていました。懸崖偏陂な土地も荒廃してはいません。」「臣自永寧州渡河西入延綏。所至皆高山峭壁。横亘數百里。土人耕牧。鋤山爲田。雖懸崖偏陂。天地不廢。」と同じ情景を述べている。

(76)聖世滋丁、永不加賦:『清史稿』巻八聖祖本紀、康煕五十一年には、「永く太平が続き、人口は日々に増加した。今後は戸数と人口が増加しても、更に人頭税を出さなくともよい」(承平日久、生歯日繁。嗣後滋生戸口、勿庸更出丁銭)とある。また、清、蒋良騏の『東華録』には、「康煕五十二年、永に賦を加えず、滋生の人丁、六万四百五十五なり」(康煕五十二年、永不加賦、滋生人丁、六万四百五十五)とある。

 

 

<原書引用文献一覧>

 

『史記』巻二十九、河渠書

『史記』巻三十、平準書

『漢書』巻九十四上、匈奴伝

『漢書』巻九十四下、匈奴伝

『旧唐書』巻三十七、五行志

『旧唐書』巻百四十四、李原諒伝

『旧唐書』巻百六十一、楊元卿伝

『旧唐書』巻百七十七、畢誠伝

『新唐書』巻百七十三、裴識伝

『新唐書』巻百八十六、周宝伝

『宋史』河渠志

『明史』河渠志

『明史』巻二百、詹栄伝

『明史』巻二百十一、周尚文伝

『墨子』耕柱第四十六

唐、杜牧「過華清宮」詩

唐、張籍「成都曲」

唐、白居易「種茘枝」詩

唐、牛粛『紀聞』『太平広記』禽鳥孔雀羅州引

明、陳子龍等輯『明経世文編』

清、劉靖『順寧雑著』

『醴陵県志』食貨志

竺可楨「中国五千年の気候の変遷の初歩的研究」『人民日報』1973619

竺可楨、宛敏渭『気象学』科学出版社1973年第一版、1980年第二版

竺可楨「歴史時代の世界気候の変動」『人民日報』196157

張家誠「気候の変化」『百科知識』1981年第9

周富祥、金鑒明「新しい総合性科学―環境科学」『現代科学技術簡介』科学出版社

  1978

『中国近代史稿』第一冊、中国社会科学院近代史研究所、人民出版社1979

『中国自然地理・歴史自然地理』中国科学院『中国史然地理』編集委員会

『歴史自然地理』中国科学院『中国自然地理』編集委員会

鄭斯中、張福春「わが国東南部地区の近二千年の旱魃と多雨の災害及び湿潤状況の変化の

  初歩的研究」『中国自然地理・歴史自然地理』

王曙「楊貴妃が食したのは広東の茘枝か」『科学と未来』1980年第1

文煥然、何業恒「中国歴史時期の孔雀の地理分布とその変遷」『歴史地理』創刊号

文煥然、何業恒「歴史時期の華北の野生象」『地理知識』1981年第7

朱靖『自然保護と自然保護区』

銭金祥「『祭鰐魚文』から揚子江ワニを説く」『大自然』1980年第2

林克傑「長江のパンダ・揚子江カワイルカ」『大自然』1980年第1

何業恒、文煥然「湘江下流の森林の変遷」『歴史地理』第二輯

アイカホルム『土地は失われている』科学出版社1982年中国語版

翦伯賛『中国史綱要』第一冊、第二冊、第三冊

童立中、張衛国「オルドス西部の人造砂漠」『百科知識』1981年第11

史念海「黄土高原及びその農林牧畜地区の分布の変遷」『歴史地理』創刊号

 

朝日新聞199896日北京支局鈴木暁彦記事

 

     The Translation and Annotation of The History of The

           Chinese Environmental Protection

                      - Part 4 -

 

 

                            Takuya KUBO

 

 Yuan Qing Lin 袁清林’s The History of Chinese Environmental Protection 中国環境保護史話, published from the Chinese Environmental Science Publications 中国環境科学出版社 in 1898, inform us about a lot of matters. For example, the environmental protection is a very important theme for us now, but he wrote clearly that it had been a basic policy which had gone on since the dawn of history in China , and the serious environmental destruction had expanded with deforestation. We, in Japan, have not such a laborious work which discuss the history of the environmental protection and the environmental destruction of China. I hope this translation will contribute to the national students.

Key words : Environmental protection, Environmental destruction,   

Nature, China, Forest, Deforestation

 

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