『中国環境保護史話』訳注(四)
久保卓哉
袁清林著『中国環境保護史話』中国環境科学出版社1990年全272頁は、中国の環境破壊と環境保護の実態を歴史的に解明した好著である。経史子集および地方志、紀行文の文献と先行論文を博く引用し、森林、河川、湖沼の自然環境の変化と動植物の生態の変化を明らかにしながら、人類が生きていくための活動が及ぼす自然環境への影響がいかに大きいか、事の重大さをわれわれにおしえてくれる。
[キーワード:揚子江ワニ、揚子江カワイルカ、孔雀、象、茘枝、気温変動、虞衡司、軍屯、
商屯、塩商人、人口問題]
1999年を前にしたある日、私はラジオのニュースを聞いて自分の耳を疑った。ラジオは、中国政府が荒れた自然環境を回復させるために、今後50年にわたって木を植え、草の種をまいて「美しい山河」を取り戻すことを決定したと伝えていた。鼓動が速くなった。
1998年の夏である。中国では44年ぶりの大洪水が起こった。氾濫したのは長江と松花江で、中部の湖南省、湖北省、江西省と東北の黒竜江省、吉林省、内モンゴルが水に襲われ2,000人以上の死者が出た。家を失った人は黒竜江省だけでも216万人、全国では1,700万戸の家屋が損壊し、水害の影響を受けた人は日本の人口の二倍にあたる2億4,000万人にのぼった。
長江流域では、この30年の間に森林面積が半減し流域に残る森林はわずか10%になった。そのために土壌は日本の国土二つ分の面積が流出して30年前の二倍に増え、なお毎年24億トンが流れ出している。長江の流れは黄色く濁ってもはや「第二の黄河」になった。このままのペースで土壌流失が続けば、300年後には長江の全域がはげ山になる。そうなると貯水能力がゼロになった長江は少しの雨でも水と土砂が流れ出し、いま建設中の三峡ダムは何の意味も持たなくなる。
これらの原因は、森林伐採と土地開発にあけくれた結果であることを中国政府は知っている。だから、長江上流に位置する四川省政府は98年9月1日から省西部の原生林伐採をやめた。これでパンダも生きのびることができるだろう。
政府の発表によると、中国の自然破壊の状況は、表土流出が国土の38%、砂漠化27%、草原荒廃14%で、破壊されずに残った自然はわずか21%にすぎない。自然環境を回復させる五十年計画は三段階で、まず2010年までに長江、黄河の上・中流域を対象に、人為的な要因による表土流出をストップさせ、すでに流出した60万k㎡と砂漠化した22万k㎡を回復させ、新たに森林を39万k㎡つくる。2030年までには、保全可能な土壌流出地域の6割以上と40万k㎡の砂漠化した荒土を回復させ、新たに森林を46万k㎡つくる。最終の2050年には、すべてのプロジェクトを終え、植林可能な土地はすべて緑化され、荒れた草原は全面的に回復された状態にするという。
これは二十一世紀に向けて発したおそらくは世界初の国家プロジェクトである。しかも五十年計画で自然を回復させるという宣言は、核廃絶や対人地雷全面禁止条約を批准し遵守すると宣言するよりも価値がある。なぜなら後者は国家間の利害や都合で反故にされる可能性があるが、前者の五十年計画を中国は必ず実行するだろう、中国は国家の方針として打ち出したことは万難を排して実行する国だからだ。
本書の著者袁清林が自然の歴史的変遷を明らかにし、その原因を分析し、環境保護のために人類が何をなさねばならないかを提言している内容は正しい。はからずも中国政府の今回の決定が袁清林の提言が間違っていないことを証明する結果になった。
今回訳出した第七章「有史期の気候の変遷と種の絶滅」と第八章「環境変遷の歴史と原因分析」のなかでの圧巻は、人口増加と環境悪化の関係について言及し、42年間で人口が九倍に増える結果をもたらした清、康煕帝の政策に対して厳しく批判していることである。康煕帝は「康煕字典」「全唐詩」「古今図書集成」を編纂させた文徳政治と、ロシアとネルチンスク条約を締結した武徳政治で評価が高いが、1712年以後増加した戸口に対しては永久に租税を徴収しない、と一見改革にみえる政策は、食糧不足とそれを補うための開発開墾をもたらし、清朝以後現在に至るまで環境悪化を増幅させているというのである。
京都大学の河野昭一氏は、退官を前にして、過去四十年ほど、日本や世界中のいろいろな地域を飛び回り、様々な生物たちを相手に研究に明け暮れてきた経験をのべる一文を、朝日新聞に寄せている。
「このわずか四十年の間にも、いや応なしに目に飛び込んでくるのは、世界中いたる所で引き起こされている余りにも大きな自然環境の変化である。それは正に激変と言わねばならない。」
「森はあちこちで伐られ、渓流は数え切れない砂防ダムでずたずたに寸断されている。湿原や干潟は埋め立てられ、川は巨大なダムでせき止められ、河岸、海岸は護岸工事でどこもかしこもセメントづけである。」
「大規模な自然の改変は、例外なく人間の生活活動の結果である。」
「地球上に生きる無数の生物たちとの共生を軽視し、自然からの一方的収奪に終始し、ひたすら経済成長と生活の利便性だけを無原則的に追い求めるならは、その結果、自然との間に生じたさらに大きな亀裂によって、自らの在在をその根底から脅かされることになろう。」
「文明とは一体何なのか。二十世紀が終わらんとしている今、改めて人類は問われている。」
河野氏のことばは日本、中国、南米などの地域性を越えて、この地球に何が起こっているかを明確に言い表している。だから人類は何をしなければならないか、その道を明確に示している。
干潟や湿原を埋め立てず、川を巨大なダムで堰き止めず、海岸をセメントづけにせず、森を伐らず、渓流を砂防ダムでずたずたにせず、山を平らにして人間が住まず、ということを始めなければならないのである。これは二十世紀が向かったベクトルとはまったく正反対である。二十世紀は、人類が自然と生物をわがもの顔に破壊した世紀であった。
向かうベクトルが正反対になるような大きな事業は、具体的には「政」、「官」、「民」の三位が一体となって行なわねばならない。そしてその方向を示す役割をになうのが「学」であろう。「学」は人間の魔物と自然の魔物との両方に立ち向かわねばならない。
中国の古い文献の中には、気候学と生物季節学に関するものが多い。そのほとんどが過去二千年の間のことで資料も分散している。中でも種の分布とその変遷に関する材料は少なく、歴史地理学者や生態学者たちが研究と分析を進めているが、これについてはの気候の変遷の研究が最もすぐれている。また、今から二千五百年以上前の研究は主に考古学的資料によって研究するが、この方面でも竺は輝かしいお手本を示してくれている。竺可楨の「中国五千年の気候の変遷の初歩的研究」(『人民日報』1973年6月19日)と、竺可楨、著『気象学』(科学出版社1973年第一版1980年第二版)は、古代の気候の変遷と種の絶滅に関する重要な文献である。
竺可楨は、古い文献の中に分散している豊富な気候学と生物季節学の資料をもとに、中国五千年の気温変化の傾向を系統的に分析し、わたしたちが歴史上の気候変動を理解する上でほぼ完全な概要を示してくれた。
彼は気候の変化を分析する際、研究材料の性質によって五千年の有史期を四つの時期に分けて次のようにいう。
(1) 考古時期(紀元前3000~紀元前1000年)
文化期の西安遺跡(6080~5600年前)と河南安陽の(3000年前)の発掘によって明らかになったことは、当時の獲物の中にあった熱帯亜熱帯動物のタケネズミ、ノロジカ、水牛が、現在はどこにもいないということである。また殷墟の甲骨文からは、当時の安陽人が稲を植えるのは現在よりも一ヶ月早かったことが分かり、黄河下流と長江下流の各地の温度を対比すると、五千年前の仰韶から三千年前の殷代は温和な時代で、現在の平均気温よりも摂氏2度高く、月の平均気温は3~5度高かった。
(2)植物季節時期(紀元前1100年~紀元後1400年)
周朝が紀元前1066年に西安付近のに都した時、黄河流域には竹類が広範囲に生息していた。だが周初まもなく気候が悪化し、は紀元前903年と897年の二度にわたって結氷。春秋期(紀元前770年~481年)にまた温暖に変わりそれが戦国、秦、前漢まで続く。後漢の紀元の初めにまた寒冷気候となり、225年、が初めて結氷した。特に280年~289年の十年間がピークで、当時の年平均気温は現在よりも1~2度低かった。その寒冷気候が南北朝時代(420~579年)まで続く。
隋唐時代(581~907年)の七世紀中葉に気候が温暖に転じ、650年、669年、678年には長安の冬に氷雪がなく、梅や柑橘類を植えることができた。十一世紀に寒冷に転じ、特に十二世紀の初めは寒冷が激しく1111年には太湖が全面凍結しその上を車が走り柑橘類は全部凍死。1153年~1155年の蘇州付近では南の運河が結氷し、1170年には十月だというのに北京の西山は雪で覆われた。福州の茘枝は千年来二度凍死したが、二度とも十二世紀(1110年と1178年)である。十三世紀の初めと中頃に短期に温暖に転じたが、後半は寒冷となり、十四世紀は更に冷え込んで現在よりも寒冷であった。1329年と1353年には太湖が数尺の厚さに結氷して柑橘類が凍死し、1351年の陽暦十一月には黄河下流で流氷が流れた。これは今よりも一ヶ月早い。
(3)地方志時期(1400年~1900年)
かつて665種の地方志によって太湖、、洞庭湖、漢水、淮河の結氷年代(十三~二十世紀)と近海、熱帯地域の降雪、降霜年数(十六世紀以来)の統計を出したことがある。その結果、わが国の暖冬は1550年~1600年と1720年~1830年で、寒冷冬期は1470年~1520年と1620年~1720年、1840年~1890年であることが分かった。世紀でいえば十七世紀が最も寒冷で十九世紀がこれに続く。江西のミカン、ポンカン園は1654年と1676年の二度にわたって全滅した。1650年~1700年の間には、太湖、漢水、淮河が四度結氷し、洞庭湖は二度結氷し、熱帯地区にも霜雪がたびたび見られ、北京の運河は107日間も氷で閉ざされた。今は56日間である。植物季節学的な遅早からも推量できるが、十七世紀中葉の北京の冬は今よりも2度前後低温であった。
(4) 計器観測時期(1960年以降)
中国科学院氷河隊の調査によって、1910年~1960年の五十年間は気温が上昇していることが分かった。天山の雪線が4,50m上がり、西部の氷河が500~1000m後退し、東部の天山氷河が200~400m後退し、同時に森林の上限も上にあがった。
竺可楨は中国五千年の気候の変化を分析して次のような結論を出している。
① 五千年のうち最初の二千年は、年平均温度が今よりも2度高く、冬一月の温度は3~5度高い。
② 紀元前千年以降の気候には一連の変化があり、温度は上下に揺れ動いた。温度が最も低かったのは紀元前1000年、紀元後400年、1200年、1700年で、振幅の範囲は1~2度。
③ 400年~800年の期間では、五十~百年周期の小循環があり、温度の昇降範囲は0.5~1度。
竺可楨は気候の変化の原因を分析した結果、太陽の輻射と大気の環流とに密接な関係があると指摘した(「歴史時代の世界気候の変動」『人民日報』1961年5月7日)。一般的に現在では気候変化の原因を研究するときは、(1)太陽活動(2)大気の環流(3)水没面積(4)人類の活動、等の要因に注意しなければならない(張家誠「気候の変化」『百科知識』1981年第9期)。総じて歴史上の気候変化は、自然因子が決定し、同時に人類の活動能力が増加するにつれ、気候変化への影響も増大している。例えば、都市の大気汚染が作り出した輻射量、降水量、温度及び大気成分の変化は、人類活動が局部的地域の気候変化に対して大きな影響を与えた例である。中国と全地球の二十世紀の温暖化傾向は、二酸化炭素による温室効果にその原因があることは多くの気象学者が認めるところである(周富祥、金鑒明「新しい総合性科学―環境科学」『現代科学技術簡介』科学出版社1978年)。
この百年、化石燃料を大量に燃やし森林を加速度的に減少させたことが、大気中の二酸化炭素の量を劇的に増やした。しかもそれは人類の活動によったものであることは確かである。ここに二十世紀の気候の変化を研究する上での重要なポイントがある。
中国科学院『中国自然地理』編集委員会が編集した『歴史自然地理』は、花粉と胞子と最近五百年の文献をもとに、数千年来の湿潤状況の変化を分析している。
今から五,六千年前は、気候が温暖であったことと平行して比較的湿潤であったが、その後五千~二千五百年前の間に徐々に乾燥期に転じた。これは遼寧省南部と右翼中旗、北京、洞庭湖地区及び四川省の花粉と胞子の分析によって知ることができたものである。
気候は湿潤から乾燥に変わるものであるという傾向は、今から七百年前までずっと続いてきた。鄭斯中と張福春は、「わが国東南部地区の近二千年の旱魃と多雨の災害及び湿潤状況の変化の初歩的研究」(『中国自然地理・歴史自然地理』p17)で、地方志の中に見える36,750回の旱魃と多雨の記録をもとに中国東南地区の湿潤状況を分析して、紀元初以来水害は減少し、旱魃災害が増加したことを発見した。紀元0年から1000年までの間は、乾期は比較的短く、湿潤期は比較的長く、1000年以後は、湿潤期が比較的短く、旱魃期が増大した。鄭斯中等はこれを年表にし、五年を一単位として水害と干害の相対値を計算し、橫座標を年代、縦座標を湿潤指数で表し(水害回数の二倍と水害干害総回数の比は、0.0~2.0の間を変動)、近五百年の湿潤指数の変化図を作った。これによって、近五百年では、水害よりも干害の方が多く、十五世紀後半から十六世紀前半と、十七世紀と、十八世紀後半から十九世紀前半の、三回の干害期が出現していることが分かる。
同じく黄河流域でも、干害の発生は近四百年に頻繁に起こっている。
三 生物種の変遷と絶滅
以上の気候の変遷から分かるように、中国では過去数度の温暖期と寒冷期があった。そしていくつかの植物は、気候の変化によってその地域分布が変化した。
竹は温暖で湿潤な気候を好む。周代以前の気候は温暖で、黄河流域には大量の竹が植えられた。これは戦国秦漢代も同じであった。紀元前110年、黄河が(河南省濮陽)で決壊したとき、河南のの竹を伐って編んだ籠に石を詰めて塞いだことがあったが(65)、これは当時、河南の淇園の竹が多かったことを物語る。
唐、宋、元、明の温暖期は、河内(今の河南省博愛県)、西安、鳳翔(陝西省)でも竹を植えていたが、明末には完全にすたれてしまった。五千年の間に竹類分布の北限は、緯度にすると1~3度南に下がったわけである。(竺可楨「中国近五千年来気候変遷の初歩研究」)
柑橘類は亜熱帯で生育するが、マイナス8度の低温でも耐えることができる。隋、唐の温暖期に、西安の宮殿と西安南郊の曲池では柑橘類を植え、文献によると751年と841~847年は果実をつけている。しかし現在の西安ではほとんど毎年の絶対最低温度はマイナス8度以下であるため、当然柑橘類は湖北省、湖南省に南下せざるを得ない状態である(同上)。
茘枝は温暖多湿多光を好んで南方での生育に適しているため、現在では、広東省、広西省、福建省と台湾に多い。だが、唐代の温暖期には四川省でも大量に栽培していた。杜牧の七言絶句「過華清宮」(華清宮を過ぐ)に、
長安回望繍成堆 長安より回望すれば を成し
山頂千門次第開 山頂の千門次第に開く
一騎紅塵妃子笑 一騎の紅塵に妃子(楊貴妃)は笑う
無人知是茘枝来 人は是れ茘枝の来たるを知る無し
とある。この詩の中で早馬が楊貴妃に茘枝を届けたと歌うように、茘枝は四川省から来たのである。もしも広東省からならば、早馬を飛ばしても長安に着いた時には新鮮ではなくなっているし、なによりも楊貴妃は新鮮な茘枝を食べたかったのであるから(66)。
当時、四川省の成都と忠県ではたくさんの茘枝が植えられていた。
張籍の「成都曲」に、
錦江近西煙水綠 錦江西に近づくに煙水綠なり
新雨山頭茘枝熟 新雨山頭にふれば茘枝熟す
とあり、白居易が忠州刺史(四川省忠県)に任ぜられた時に詠んだ「茘枝をう」(種茘枝)詩に、
紅顆真珠誠可愛 紅顆 真珠 誠に愛すべし
白鬚太守亦何癡 白鬚の太守また何ぞ癡なる
十年結子知誰在 十年にしてを結ぶも誰が在るかを知らん
自向庭中種茘枝 自から庭中に向かいて茘枝を種う
とある。
茘枝の分布は気候の変化にともなってしだいに南へ移り、北宋の960年、茘枝の株は成都の南60kmの(北緯30度)でしか生育できず、南宋では、眉山の更に南方60kmのでようやく茘枝を植えることができた。(しかし現在では再び眉山に茘枝があるが、これは気候の変化による。)北宋で寒冷に転じ、南宋で更に進んだのである。現在は南宋の時よりも暖かく、唐代よりも冷たい(王曙「楊貴妃が食したのは広東の茘枝か」『科学と未来』1980年第1期)。
気候の変化と人類の活動が与えた植物の絶滅に対する影響という問題は、今後深く研究すべき問題である。しかし、キョウドウ(空桐樹)、メタセコイア(水杉)、ギンスギ(銀杉)、イチョウ(銀杏)等の危機に瀕することになる植物は、第四紀氷河期にその変化が始まるが、事実上発生したのは地質時代である。つまり有史期の特に近代以降になって、人類の活動というものが植物種の絶滅に大きな影響を与えはじめるのである。
有史期における野生動物の数と地域分布にも大きな変化があった。その原因は気候変動等の自然要因にあるが、人類の活動がその大きな要因となっている。
孔雀は貴重動物で、今はわずかに雲南省の南西部にいるのみである。何業恒、文煥然の研究によると、有史期、孔雀は広範囲に分布し、長江流域やそれ以南にいたのみならず、『太平御覧』、『北史』の記載ではタリム盆地の西北でも群れをなして飛んでいたという。その主要な地域は次の三つである。
一 長江中流域、四川盆地、雲南省東北
二 五嶺の南(広東省、とその周辺地区、広西壮族自治区の北、西南、東南
地区)
三 雲南省西南
長江流域の孔雀は、戦国の楚の時代から晋代にいたるまでずっと記載があり、嶺南(五嶺の南)一帯の孔雀は前漢から南宋まで日常よく見る鳥の一種であった。広東省には十六世紀の六,七十年代まではいたが、西側では十八世紀の三十年代以後絶滅した。広西の西南と東南の孔雀は、明清時代に徐々に少なくなり、六万大山と十万大山の間にある霊山県一帯では二十世紀になると絶滅に向かった。雲南省西南部では漢から元までずっと棲息していたが、明清時代にはその分布の範囲が縮小している。
孔雀の分布範囲と数量は有史期になって急速に減少したが、その主な原因は人間に捕殺されたことにある。唐宋時代には孔雀を捕って食べる者が多かった。『太平広記』禽鳥、孔雀、羅州に引く唐、牛粛の『紀聞』には、「山谷の夷民は、煮てこれを食う」(67)と記し、清、劉靖の『順寧雑著』には、孔雀は「肉が細かく香りがあり、焙ったり炒めてよいが、食べ過ぎるのはよくない」と記している。薬効もあるがその尾羽を取って装飾に使うことが多い。『順寧雑著』に、「順寧(雲南省)の深山には頗る孔雀が多く、城守、都司たちは毎年上役への供え物として、両翼の下にある黄色の羽を数百、千と取って贈っていた」と記している(文煥然、何業恒「中国歴史時期の孔雀の地理分布とその変遷」『歴史地理』創刊号p132-139)。唐代中期の韋后とその娘安楽公主は大いに奇装異服を着て、百官がまねをしたため、狩猟の風が盛んとなり、長江から衡山の南にある五嶺までの間の珍禽異獣はほぼ捕り尽くされてしまったという(『旧唐書』巻三十七五行志)(68)。孔雀のような美しい鳥にとって、避けられない運命だったのだろう。
文煥然たちはこれ以外にも、歴史上山村草地に対して行った開墾が孔雀の棲息地を破壊し、孔雀の減少と分布範囲の縮小の原因となったという。わが国南部の開発は、長江流域が最も早く、次いで珠江流域、そして最後に雲南の西南部という順である。孔雀の分布の移り変わりも大体これと同じで、犀や象に似て棲息する北限が次第に南下したのである。
第八章 環境変遷の歴史と原因分析
明初の洪武二十六年(1393年)、全国の人口は歴史上最高の6,055万人に達し、民間の食糧と軍の食糧は荒地を開墾した土地からの収穫に頼っていた。この時各州県の開墾耕地は「少なくて1,000畝、多くて20万畝」(0.6k㎡と1,332k㎡)で、政府は一部の帰順民、罪人と土地のない農民とを組織配分して屯田の耕作にあたらせた。例えば、洪武三年(1370年)には、蘇(蘇州府)、松(松江府)、嘉(嘉興府)、湖(湖州府)、杭(杭州府)の農民4,000余戸を臨濠府(安徽省)に移し、洪武四年(1371年)には、今の内蒙古と山西省北部一帯の「砂漠遺民」32,000余戸を北平府(北京市)に移し、洪武十五年(1382年)には、広東省増城市等の帰順民24,000余人を泗州(安徽省)に移して、耕作させた。このほかに山東の登州、莱州の農民を東昌府に移し、山西の沢州、潞安の人民を北平府に移し、江西の農民を雲南、湖北、湖南に移した。これを「民屯」という。これ以外に「軍屯」「商屯」がある。軍隊は辺地では守備三分、屯田七分、内地では守備二分、屯田八分の割で活動し、穀物を上納して軍糧としたがこれを「軍屯」という(『明史』巻七十七食貨志)。また政府は、塩商人が塩を販売するには必ず先に食料を辺地に送るべし、と規定したため、塩商人は辺地で人を募って開墾し、現地で農耕税を納めて、政府の「塩引」(販売許可証)と引き替えに塩の販売を占有したが、これを「商屯」(74)という。
洪武十六年(1383年)の統計によれば、新しく開墾された田地はおおよそ180万5,216頃(12万k㎡)に達し、当時の全国の耕作地の半分を占めた。十年後の1393年には、全国の官田、民田は新旧開墾田を併せて850万7,623頃(56万7,000k㎡)で、これは前漢を超え、元末よりも4倍余り増えた。(翦伯賛『中国史綱要』第三冊p172-3)
(65)瓠子の決壊、淇園の竹:漢武帝の元光年間(前134~前129年)に黄河が瓠子(河南省濮陽)で決壊し、武帝は二十数年後の元封二年(前109年)に汲仁と郭昌に命じて決壊箇所を塞がせた。その際、淇園の竹を編んで石を入れ堰とした。『史記』巻二十九河渠書、巻十二孝武本紀、『漢書』巻二十九溝洫志、巻六武帝紀に見える。その時武帝が作った歌「瓠子歌」が『史記』河渠書にあり、『楽府詩集』巻八十四にも収められている。
『史記』河渠書にはこうある。「黄河が瓠子で決壊してから二十余年、実りのないことが何年も続いた。天子は汲仁と郭昌に命じて人夫数万人で瓠子の決壊箇所を塞がせた。天子は自らその地に行き、群臣に命じて将軍以下は皆薪を背負って決壊箇所に置かせた。この時、東郡では草を焼いたので薪柴が少なく、淇園の竹を伐って楗(揵)とした。」
ここに登場する「楗」(揵)ということばの解釈をめぐる諸説を紹介しておこう。劉宋、裴駰の集解は魏、如淳の説を引いて次のようにいう、「樹竹塞水決之口、稍稍布挿接樹之、水稍弱、補令密、謂之楗(揵)。以草塞其裏、乃以土填之。有石、以石為之。」「竹を植えて水の決壊箇所を塞ぎ、徐々に敷き詰めるように植え、水が弱まれば、もっと密生させる、これを楗(揵)という。草で内側を塞ぎ、土で補填し、石が有れば石でそれをする。」これに対し唐、司馬貞の索隠は、「楗(揵)者、樹於水中、稍下竹及土石也。」「楗(揵)とは、水中に植えて、竹及び土石を落として堰を作ること。」という。
一方、瀧川亀太郎『史記会注考証』は、清、兪正燮の『癸巳類稿』と清、沈欽韓の『漢書疏證』の論考を紹介している。兪正燮の論考、「如淳は小さい堰を作る方法をいっているのであって、決壊を塞ぐ方法をいっているのではない。原文に「薪柴少」とあるが、草でその内側を塞いだのではない。『漢書』溝洫志に、建始四年黄河が決壊し、王延世が竹を落として塞いだ、その長さ四丈、大きさ九囲で、小石を盛り、両船で挟んで載せた物を落とした、とあるのが、竹を落として楗(揵)とした、ということである。」沈欽韓の論考、「『元和志』に李冰が揵尾を作って堰とし、長江の決壊を防いだ、竹を裂いて籠を作り、その直径は三尺、長さ十丈、石を中に詰め、それを積み上げて水を塞いだ、とあるのが、竹を落として揵とする方法である。」
当時漢の武帝は「瓠子歌」で、工事が容易に完成しないのを悲しみ次のように歌った。
河湯湯兮激潺湲 河は湯湯として激してたり
北渡迂兮浚流難 北に渡迂して浚流 難し
搴長茭兮沈美玉 長茭(竹の縄)をり美玉を沈め
河伯許兮薪不属 河伯(河の神)許せども薪かず
薪不属兮衛人罪 薪属かざるは衛人の罪なり
焼蕭條兮噫乎何以禦水 焼いて蕭條たり噫乎何を以てか水を禦がん
穨林竹兮楗石菑 林竹をして(荒石)を楗にし
宣房塞兮万福来 宣房(瓠子の地)塞がって万福来たらん
(66)楊貴妃、茘枝:『資治通鑑』巻二百十五、唐紀、玄宗、天寶五載に、「妃欲得生茘支、歳命嶺南馳駅致之、比至長安、色味不変。」「楊貴妃は新鮮な茘枝を欲しがり、毎年嶺南(広東省)より早馬を飛ばして持ってこさせたが、長安に着いても色と味は変わっていなかった」とあるが、胡三省の注には、「自蘇軾諸人、皆云此時茘支自権州致之、非嶺南也。」蘇軾などの説として、当時の茘枝は四川省のから来たもので嶺南(広東省)からきたのではないという説を挙げている。
南宋、王象之『輿地紀勝』巻百七十四、権州、風俗形勝及び古迹に、「地産茘枝」、「妃子園 在州之西去城十五里、百余株顆肥内肥。唐楊妃所喜。一騎紅塵妃子笑、無人知道茘枝来。謂此。当時以馬遞馳載、七日七夜至京。」権州は茘枝が多く、楊貴妃が食するために馬で運び、七日七夜で長安に着いた、とある。
(68)韋后、安楽公主:『旧唐書』巻三十七五行志に、「中宗の娘安楽公主は尚方官に毛の裙衣を織らせた。百鳥の毛を合わせたものだが、正面から見て一色、横から見ても一色、日中でも一色、日陰でも一色に見え、しかも百鳥の姿がその裙衣の中にはっきりと見えた。それを二着作り、一つを母の韋氏に献じた。値は百万。… 安楽公主が毛の裙衣を作ってからは、百官の家では多くそれを真似した。長江と五嶺の間では奇禽異獣の毛羽はほとんど捕り尽くされてしまった。」とある。
(70)象の重さ:『三国志』巻二十、鄧哀王沖伝に、「孫権が巨象を送り届けてきたことがあった。曹操はその重さを知りたくて、方法を臣下たちに訊ねたが、だれもその原理を見つけだすことができなかった。その時曹沖が、『象を大きな船の上に置いて、水あとがついている所にしるしを付け、それと見合う重さの物を載せれば、計算して分かります。』と言った。曹操はたいそう喜びすぐに実行した。」という、故事がある。
(74)商屯:『明史』巻七十七、食貨志に、「明初に塩商を各辺に募りて開中せしむ、これを商屯と謂う」「明初、募塩商於各辺開中、謂之商屯」とある。塩商人を辺地に集めて開中させることを「商屯」といった。「開中」とは、明朝政府が商人に食糧を辺塞の地に運ばせ、そのみかえりとして塩を運んで販売する権利を与えたことをいう。
(76)聖世滋丁、永不加賦:『清史稿』巻八聖祖本紀、康煕五十一年には、「永く太平が続き、人口は日々に増加した。今後は戸数と人口が増加しても、更に人頭税を出さなくともよい」(承平日久、生歯日繁。嗣後滋生戸口、勿庸更出丁銭)とある。また、清、蒋良騏の『東華録』には、「康煕五十二年、永に賦を加えず、滋生の人丁、六万四百五十五なり」(康煕五十二年、永不加賦、滋生人丁、六万四百五十五)とある。
The Translation and Annotation of The
History of The
Chinese Environmental Protection
- Part 4 -
Takuya KUBO
Yuan Qing Lin 袁清林’s The
History of Chinese Environmental Protection 中国環境保護史話, published from the Chinese
Environmental Science Publications 中国環境科学出版社 in 1898, inform us about a
lot of matters. For example, the environmental protection is a very important
theme for us now, but he wrote clearly that it had been a basic policy which
had gone on since the dawn of history in China , and the serious environmental
destruction had expanded with deforestation. We, in Japan, have not such a
laborious work which discuss the history of the environmental protection and
the environmental destruction of China. I hope this translation will contribute
to the national students.
[Key words : Environmental protection, Environmental
destruction,
Nature, China,
Forest, Deforestation]