第十七章 古代の国土と環境整備

 

近ごろは国土整備ということがよく言われる。そこには、国土資源の開発と利用、および管理と保護が含まれ、その中にさらに国土測量と資源調査、国土区画と国土利用などを計画し、配置し、分配すること、つまり具体的には水利や都市建設、交通建設などの、環境整備を目的としておこなう国土建設が含まれる。

 中国では綜合的にも単相的にも、早くから国土整備を行ってきた。古代の国土整備は、生産を発展させ、国家を振興させるためであり、田地を調査して税額を査定するためであり、環境を目的として美しい園林を造るためであり、また、国を守ることが目的であったりしたが、しかし、どのような目的と理由であったにしろ、そこに客観的な効果があったことは疑う余地がない。こうした経験と教訓とを歴史的に研究することは、今日の国土整備と環境保護にとって、また今日の国土建設にとっても、おおいに参考になろう。

 

一 『禹貢』の記載とその価値

 

 中国最古の地理書である『禹貢』は禹王の作だと伝えられているが、それは伝承にすぎず、制作年代がいつかについても、百家争鳴の感があり、今にいたるも意見の一致をみていない。ある説では、周の初め、つまり紀元前十一、二世紀であろうとし、またある説では、前漢の初め、つまり紀元前二、三世紀であろうとする。だが、顧頡剛(こけつごう)を筆頭として、戦国時代に成った書であろうとする学者が多い。このように『禹貢』の成書年代に諸説があっても、その価値の高さについては疑問をはさむ学者はいない。『禹貢』は夏王朝において行われた国土整備の実態を反映した文献だからである。

 そこには、古代の政治制度と国土とを九州に分けたことが記載され、山川の方位と経路、物産の分布、土壌の性質が記され、治水と治土の経験が記録されている。その内容は極めて豊富で、体系的に整っている上に、厳密に構成されており、上古の国土とその環境がみごとに映し出されている。神話迷信の部分を捨てると、そのほとんどが根拠にもとづいたもので、まことに研究する価値が高い。

 『禹貢』の初めにいう。

 

  禹が大地を分かち、山をめぐり木に印をつけて、高山や大川を定めた。

 

禹が、九州に区分する境界を定め、山を巡り目印の杭を打ち込み、高い山と大きな川に命名したことをいう(王世舜『尚書訳注』四川人民出版社一九八二年)。これはつまり国土区画をし測図をしたことを意味している。

 次に九州の状況を個別に紹介して、その境界線を示し、水利の様子を説き、土質と賦税の等級を述べ、貢ぎ物の品とその経路を記している。()州については次のようにいう。

 

  壺口(ここう)の治水工事を終えると、梁山と岐山の開削を始めた。太原付近の川を治めてから、太岳(たいがく)の南面を治めた。覃懐(たんかい)一帯の水利工事も成果をあげ、そこから北に向かって流れる(しょう)水の河道も治めた。冀州は土質が白くて柔らかく、臣民は一等の賦税を出さなければならないが、二等の賦税もまじっている。土地は五等級に属している。(こう)水と衛水の二つの川はみなうまく流れて大海に流入し、大陸沢(たいりくたく)の工事もすでに始まった。沿海(えんかい)一帯の諸侯が皮の衣服を貢上するときは、碣石(けつせき)を回って黄河に入ってやって来た。 (王世舜『尚書訳注』)

 

この記述から、当時の治世は、九州を区分し、州の境界を定め、河道を工事し、土壌を分類し、その土地の資源(例えば冀州では皮の衣服)と交通の路線までも管理していたことが分かる。その国土区画と資源調査および環境整備はなんと全面的で完備しているではないか。必ずしも禹王が行ったこととはいえないが、古代の国土整備の実態が反映されていることは明らかである。

 『禹貢』の末尾には次のようにいう。

 

  九州の水利工事はすべて完了し、四方の土地は居住できるようになった。九州の山はすべて治まり、河川もすべてよく流れるようになり、沢にも堤防が築かれ決潰しないようになった。海内の道路はすべて障害なく通じ、六府の政務はすべて遂行されるようになった。九州の土地は正確に調査され、各地区の土質にもとづいて、異なった賦税が定められ、人民は土質の優劣によって三等級の賦税を納めるようになった。九州の土地はすべて諸侯に分配され姓氏が与えられた。

 (王世舜『尚書訳注』)

 

 これをみると九州の国土全体を考えて整備し、人民がこの広大な土地で生活できるようにしていることが分かり、当時の国土整備の規模と方法とその成果の一端をみることができる。この『禹貢』の内容は、今の世において国土整備をすすめる上でも参考になる。

 

二 古代の国土整備観

 

 中国の古代、特に先秦時代では、全面的に国土を整備することを重視しただけではなく、一歩進んで国土整備を立国の本とみなし、それがうまく行われたかどうかはその国の生死存亡に関わると認識していた。『荀子』は、国家の治乱状況を見るには、その国の領土を見れば一目瞭然、田地が荒れ、町が荒れていれば、その国はひどく乱れている、と言っている(富国篇第十)。『国語』の周語中にみえる「単子 陳の必ず亡ぶを知る」故事などはその典型的な例であろう。周の定王が単子(ぜんし)襄公を宋国に派遣したとき、陳国を通った単子は、陳の国土がひどく荒れているのを見た。国に帰って定王に報告をしたとき、陳侯がたとえ大きな過ちを犯していなくても、必ずや陳は亡びるであろうといった。定王がそのわけを問うと、

 

  今陳国は、道路がふさがり、農場は棄てられ、沢に堤防をせず、川に舟も橋もない状態で、これは先王の教えを廃止するものです。周の制に次のようにあります。「木を植えて並木として道を示し、十里おきに飲食できる小屋をたてて道を守り、国には郊外に放牧地があり、国境には宿があって関所の役人がおり、沢地に草が茂り、苑囿に池や林があるのは、災いに備えるためである。その他は穀物のための田畑でない所はなく、民に遊んでいる(すき)はなく、野に奥深く茂った雑草がなく、農期を奪わず、民の仕事をさまたげないから、豊かで欠乏することなく、楽をして飢えや凍えを知らず、国には秩序があり、農村にも秩序がある。」と。今陳国では、道路がどこだか分からず、田畑は雑草にうずもれ、作物が実っても収穫せず、民は国君の逸楽のために働かされて疲れきっています。これは先王の法制を廃棄するものです。

      (『国語』周語中)

 

と述べている。

周の官職の秩序によれば、外国からの賓客が来た場合、各方面からの責任者が分担して接待にあたるようになっていた。関尹(かんいん)(関所を司る官の長)は国内に報せることを司り、行理(こうり)(賓客を司る官)は天子から授かった旗を持って出迎え、候人(こうじん)(道案内の官)は付き従って同行し、卿相(大臣)は城外に出むいて賓客を迎え、門尹(もんいん)は城門と園庭をきれいに掃き清め、宗祝(そうしゅく)は祭祀の礼を司り、司里は客人一行の宿泊を手配し、司徒は道路の整備をさせ、司空は道路に問題がないか検査をし、司寇(しこう)は保安の責任をもち、虞人(ぐじん)は物資を供応し、甸人(でんじん)は燃料に責任をもち、()()は会見する大殿の照明に責任をもち、水師は一行の洗濯と用水に責任をもち、膳宰(ぜんさい)は食事の準備をし、廩人(りんじん)は米を用意し、司馬は一行の家畜に飼料を与え、工人は一行の車両を点検修理する、というように百官総出で賓客をもてなし、あたかも自分の家にいるかのように感じさせるのが普通であった。しかし、単子が陳国に来てみると、誰一人接待するものはおらず、当の陳靈公までもが二人の大臣を伴って夏徴舒(かちょうじょ)の家に遊びに出かけていたというありさまであった。陳は環境整備が遅れているばかりか、国全体が腐敗しきっていたわけである。果たして単子が予想した通り、八年を経ずして陳は亡んでしまった。

 単子が陳の滅亡を予言したのは決して偶然ではなかった。周の制度を備えていないし、必要な整備をしていなかったからである。この国土の整備ということに関して、先秦の文献にはみな論述がある。たとえば『荀子』では、各種官吏の職責について論じたところでは、もっぱら国土整備の内容を論じている。虞師は山林川沢を管理するものであることを述べた後、更に司空の職責を述べて、司空は堤防を修築し、水溝を開通させ、汚水を排泄し、貯水池を守り、ひでりには水を放出して灌漑し、大雨の時は水門を閉めて、水害や干害の年でも民が安定して収穫できるようにするのが仕事であるといっている。また司田(しでん)は、土地の高低、肥土、痩土によって植える作物を決定するのが職責であることを述べている。

 『管子』の国土整備に関する論述は更に多く、その立政篇には、国君として解決しなければならない五つの問題があることが述べられている。

 

  一つは、山沢の火災を防止につとめなければ、草木の生育が悪くなり、国は貧窮に陥る。二つは、溝渠が全線にわたって通じていなければ貯水池の水が氾濫して、国は貧窮に陥る。三つは、田野に桑と麻を植えず、農作物を土壌に合わせなければ、国は貧窮に陥る。四つは、農家が六畜を飼わず、野菜や果実の備えがなければ、国は貧窮に陥る。五つは、工事を節約しなければ、国は貧窮に陥る。反対に、山沢の防火につとめれば草木はよく生長し、溝渠が全域にわたってよく通じていれば貯水池の水は溢れず、田野に桑と麻を植えて尚かつ土壌に合わせ、家々で六畜を飼育して野菜と果物を植えれば、国は富む。              (『管子』立政篇)

 

 管仲のこの話は、もとより農業と牧畜、手工業の生産を高めるために言及したものだが、重要なのは、自然資源を保護することや、水利を計り水害を防止して、合理的に土地資源を利用することに言及していることで、これは現在の国土整備においても同様に重要なことである。

 『管子』の問篇には、詳細に調査すべき項目が提示されている。ある国の未開発の資源の中で、解決が可能で、人が急いで必要とするものは何か。それは農村の牛馬の肥痩、山林湖沼に放牧している壮健な牛馬の頭数、城郭建築の厚みと薄さ、楼門の高低、水溝の深浅、開墾した土地で人が受益している面積の広さ、等であると項目を挙げている。

 『管子』の八観篇には、ある国の富強度を八方向からチェックすべきことが述べられている。例えば、

 

田畑の耕耘状況をチェックすること。もしも耕地が深く耕されておらず、雑草が刈られておらず、植えるべき土地に作物が植えられておらず、未開墾の土地は荒れ放題で、田畑が痩せている割には荒地がさほど痩せておらず、人口数の割には耕地が少なく荒地が多いようであれば、たとえ干ばつや水害がなくても、その国はきっと貧しい。また、山林川沢をチェックすること。桑や麻の生長状況と六畜の数量を計算すれば、その国の豊かさが分かる。もしも広大な山沢を保有しているのに、草木の生長を保護するための禁令がなかったり、土地が肥沃なのに、桑や麻の栽培が理にかなっていなければ、その国は豊かとはいえない。また、都市と農村の比率で、都市が大きい割に農村が小さければ、その国の民を養うことはできない。また、農村の人口と土地の関係で、一万戸の人口の農村に、周囲五十里(二〇.三キロメートル)の土地があれば、その人口を養うことができる。土地の周囲が五十里の農村に山地や沢地があっても、人口が一万戸未満であれば、その人口を養うことができる。しかし一万戸以上の人口では、山地や沢地があれば養うことができない。土地が既に開墾されているのに、依然として民に貯えがない国は、人口と国土、人口と耕地の比率が不釣り合いなのだ、

 

ということが述べられている。

 『管子』の乗馬篇ではまた、土地の面積と人口との関係について分析している。八十平方里(三二.四平方キロメートル)の上等の土地では、一万戸の人口をもつ都市一つと、千戸の人口を持つ町四つを養うことができる。百平方里(四〇.五平方キロメートル)の中等の土地と百二十平方里(四八.六平方キロメートル)の下等の土地で養うことができる人口数は、八十平方里の上等の土地と同じになるという。

 管仲がこのように具体的に出した結論は、現在ではまだ未確認で、当時でもただ概数を示しただけだったが、しかし、彼がさまざまな問題を探究した方法と、その国土整備がもつ意味を明確に提示したことは称賛にあたいする。管仲が数千年前に行った分析は、世界の国土整備史の中でも特筆すべきことである。

 『管子』の乘馬篇には、さらに「正地」(土地の調査整備)の考えが展開されている。「正地」には、土地を調査した数字という意味のほかに、修整、区画するという意味がある。たとえば、土地は政治の根本で、天候は人力で改変できない、政治を整備することができるのは土地だけで、だから、土地には整備を加えることができる。土地を整備するには、実際に耕作可能な土地を調査して数字的にだす必要があり、それがなければ政府は管理する方法がなく、農業もまたうまくいかない、という。また、三年に一度は田畑のあぜ道を修理し、五年に一度は田畑の境界を整備し、十年に一度は区画を更新して、つねに整備を行うことが述べられている。管子の目的は税収なのだろうが、その国土を整備するという意味ももちろんある。

 このように『管子』には古代の国土整備観が具体的に展開されていることが分かる。たとえその内容が完全でなく、また国土整備の概念を明確に提示したものでなくても、資源を保護し、水利を考え、土地を管理し、都市と農村のバランスを考え、人口と耕作地の関係および土地を整備することを示したことは、きわめて高い見識であるといえよう。古代の国土整備観は、まさしく管子によって集大成されたのである。

 

三 土地の整備

 

 『管子』にいう「正地」は、土地を調査整備することで、これは国土計画の上では重要なポイントとなる。各種の土地、とりわけ耕地を、調査し、測量し、区画し、統計し、登記簿を作成することは歴代王朝にとっては大事なことであった。以下に、周、秦、漢、宋、明の各王朝を例にあげて述べてみよう。

 周代では、土地に対して正確な測量と統計を行っている。楚の国を例にあげてみると、『春秋左氏伝』に楚の令尹の子木(しもく)が、土地や田畑や武器の統計をとったことが記されているが、これは「正地」の一例である。

 

  山林の材木を測り、沢地からの利益を出し、丘陵は別に書き出して墓地とし、塩分の多い土地を明らかにし、礫土の広さを測り、湿地は冠水の程度で分け、作物のできる堤防は広さを測り、水辺の土地は牧畜地として利益を計算し、開けた沃野を区画し、その収益の多寡を計って、租税の割り当てを修正した。      (『春秋左氏伝』襄公二十五年伝)

 

この時の測量は税額を定めるためであったが、「正地」の観点からいえば実に全面的なものであった。

 秦漢より明清にいたるまでの長い間、人口の増加と間断なく続いた戦争のために、周代のような全面的な国土調査がおこなわれることは少なかった。しかし、国土と耕作地を調査することは依然として重要視されていた。例えば、秦漢時代の大司徒という職は、「邦の土地の図とその人民の数を掌建」するのが専門で、職方(しょくほう)()は、「天下の図を掌り、以て天下の地を掌る」ことが仕事で、土訓(どくん)は、州郡の地図を作ることがその主な職責であった。皇帝が各地を巡視したときは土訓がその車の左右に付き従い、皇帝にその地方の特色や特産物を説明したのである(『周礼』地官司徒、大司徒,土訓 夏官司馬、職方氏)(Joseph Needham『中国科学技術史』第五巻科学出版社一九七八年)(注121)

 宋代では、王安石が精査な土地測量をしている。北宋の神宗のとき(一〇六八〜一〇八六年)、朝廷は王安石の新法を採用して、水利事業をおこし生産性を高めることを奨励した。王安石は方田(ほうでん)均税法を立て、各州各県にある耕作地を再調査した。それは一辺が千歩(一五三〇メートル)四方を一方とする、方を単位としたものであった。測量後は、まず各戸の占有地を査定してから、土地の高低や肥痩によって五等級に分けて税額を決めた(翦伯賛主編『中国史綱要』第三冊人民出版社一九八二年)。これも土地を測量して税額を決めるためであったが、その結果、客観的に国土資源、特に耕作地と土壌の質量の等級が分かった。

 明代では、土地の測量と登記がしばしば行われた。朱元璋は建国後、水利事業をおこし、植樹造林をし、荒地を大開墾し、民を移住させることを提唱した。洪武十四年(一三八一年)に第一次戸口調査をおこない、洪武二十年(一三八七年)には全国的な土地測量を実施して、国子生の武淳(ぶじゅん)などを各州県に派遣して田畑の周囲を測らせた。かれらは戸主の名前と田の寸法とを字号(文字で書いた符号)で記入した冊子を作り、それが魚鱗に似ていたので「魚鱗図冊」といわれた。「魚鱗図冊」には、田畑を主として、それ以外に平地や丘陵、水辺や低地と湿地、沃土と瘠土、砂地と含塩土の別などが詳しく書かれていた。明代ではのちに大がかりな開墾が行われ、二十六年(一三九三年)には八百五十万七千六百二十三頃(一頃は五八〇アール)に達した。

万暦六年(一五七八年)、朝廷は大学士、張居正(ちょうきょせい)の意見を取り入れて、全国の土地を測量し、その中には勳戚(勲功ある天子の親戚)の荘園と軍屯地も含まれていたが、三年の月日をかけて七〇一万三九七六頃を測量した。これは弘治年間(一四八八〜一五〇五年)より三百万頃増加したが、洪武年間の測量よりは百万頃ほど減少した(『明史』巻七十七食貨志)。この測量は一般農民に有利にはたらき、勳戚や地主にはさほど有利にならなかった。というのも、彼らは多かれ少なかれ数値を抑えられたからで、しかも測量後に一条鞭法(いちじょうべんほう)(注122)などの改革が行われたために、全国的に経済は上向きになった。このように国土計画の観点からすると、明の測量は、国土資源を把握する上で一定の効果があったわけである。

 

四 水利建設

 

 昔の人々は、生産性と生活条件を改善しようとして、自然災害を防ぎ、国土と環境の建設に力を入れ、また、大小さまざまな水利事業をおこなってきた。中国の水利事業の歴史は、大禹の治水から数えると四千年以上の歴史があり、堯帝の治水官、共工(きょうこう)から数えると、それは更に古くなる。

 『禹貢』の記載から判断すると、大禹の治水は水利工事の範疇を越えており、実際上は、それは全面的な国土整備であった。これから以下に述べる古代の水利事業の実例をみても、それはとりもなおさず国土と環境の整備であったことがわかる。

 春秋戦国時代の有名な水利事業には、芍陂(しゃくひ)水十二渠、都江堰(とこうえん)鄭国渠(ていこくきょ)の潅漑事業と(こう)(こう)鴻溝(こうこう)の運河工事と黄河の堤防工事がある。

 安徽省寿県安豊の南に位置する芍陂は、古代の大型潅漑貯水池で、またの名を安豊塘といい、楚の令尹(そん)叔敖(しゅくごう)が建設した。当時から五つの水門があって水量の調節に便利なようにできていて、周囲は約百里(四キロメートル)で万頃(一.八二万ヘクタール)の田を潅漑し、経済的にも顕著な効果があった。

 水十二渠は魏の文侯のとき(前四二四〜前三八七年)、西門(せいもん)(ひょう)(ぎょう)(河南省)の県令となって建設したもので、河伯(黄河の神)のために(つま)を娶ってやらなければ、河水が暴れて人を溺れさせるという地元の迷信から出ている。それを払うために、十二の溝渠を掘ってそこに水門を設けて黄河の水を引き、田を潅漑して、雨季でも水が氾濫しないようにした(『史記』巻百二十六滑稽列伝)。

 世に有名な都江堰は四川省灌県にあり、秦の昭王のとき(紀元前三〇六〜前二五一年)、王に任命された蜀守の李冰が建設した。この工事は岷江(びんこう)の氾濫を防いだだけではなく、百二十の溝渠と堰堤を築いて潅漑するシステムを作ったため、受益の田は百万畝(約二万ヘクタール)に達し、後には更に増大して三百万畝に達した。

 鄭国渠は、(けい)水の水を洛水に引く延べ三百里(一二一キロメートル)の渠溝で、四万頃(七二.八〇〇ヘクタール)の田を潅漑した。紀元前二四六年にできて以来「関中は沃野となり、凶年無し」(『史記』巻二十九河渠書)といわれた。

水と洛水を結ぶ鄭国渠

      (呂卓民「古代関中鄭国渠、白渠与六輔渠研究管見」『中国歴史地理論叢』一九九八年増刊『漢唐長安与黄土高原』史念海主編収)

 

溝は中国最古の大運河で、紀元前四八六年に建設され、呉の地(江蘇省揚州の東南)から北の射陽湖を経て末口(江蘇省灌南県)に至り淮河に通じていた。その後は更に沂水、済水に通じるようになり、隋煬帝が大運河を開いたときはこの溝系統を利用した。

長江と淮河を結ぶ

(譚其驤主編『中国歴史地図集』第一冊、原始社会・夏・商・西周・春秋・戦国時期、地図出版社)

 

 鴻溝は、黄河と淮河に通じる運河で水門があり、魏の恵王の在位中(紀元前三六九〜前三一八年)に建設され、紀元前三六一年に着工された。鴻溝は(けい)(たく)()田沢(でんたく)に通じて、運輸だけでなく潅漑と水量調整の働きがあり、黄河下流の洪水を防いだ。

 黄河の堤防工事は列国が行ったのだが、その沿岸住民への安全保障の意味は改めていうまでもないほど大きかった。後に、斉、楚、燕、趙などの諸国が長城を築いたときは、この黄河の堤防を基礎にしている。それほど当時の堤防は高くて大きかったということだ。

 漢から唐への千年余りの間、中国の水利建設は渠溝の開削や堤防の構築ですぐれた成果を挙げた。

 漢の武帝のとき、相前後して渭水から黄河にかけての運河が開通した。洛水を引いて潅漑する龍首渠(りゅうしゅきょ)や六輔渠、白渠があり、二十年来決潰していた黄河の瓠子(こし)の決潰箇所を塞いだのも武帝だった。(注123)

龍首渠を開削する時には、初めて井渠(せいきょ)法(注124)を用いた。この工法は後に甘粛省、新疆省の日照り地帯に広がって「坎児井」(カンルジン)と呼ばれ、日照り地帯の生産と環境の向上に大きく貢献している。

 前漢の水利工事には更に関中の(れい)()(きょ)、成国渠、()(きょ)の建設工事と河南省汝南、安徽省寿県の淮水引きこみ工事、山東省西部の(ぶん)水引きこみ工事、内蒙古、甘粛省の黄河引きこみ工事、山西省の(ふん)水引きこみ工事、東南沿海の防潮工事などがある。

 後漢では四二年の河南省汝南の鴻郤陂(こうげきひ)の修復と八三年の芍陂の修復があるが、最も有名なのはやはり六九年に行った王景の治水工事であろう(注125)。王景は千里(四〇五キロメートル)におよぶ堤防を築いてを修復し、一年で竣工させ、それ以来数百年の間、黄河に洪水や河道の変化がなくなった。それは中流域の農業牧畜の発展と関係がないことはないが、王景の治水による影響が大きい。

 隋唐時代では、北の関中の水利工事と、龍門の下に黄河の水を引いて潅漑する工事が継続して行われ、更に大運河と南方の江蘇、浙江の防潮堤、太湖の湖堤、長江の堤防などが相継いで完成した。

中唐になると囲田(いでん)(沢地を囲って田畑にしたもの)が増え始め、それは低湿地を改造する効用があったものの、生態系の均衡を崩す結果となり、環境にはよくなかった。

 宋代は、水利の発展がめざましく、北での黄河、海河(かいが)を引いて潅漑する工事以外に、南方では、木蘭陂(もくらんひ)、潭州の亀塘(きとう)、眉州の通済(つうさい)堰、興元府の山河堰、淮東の(しょう)()堰、浙江の捍海(かんかい)(とう)などの大工事があった。このうち木蘭陂についていえば、これは十一世紀初頭に行われた、福建省()(でん)県の、引水、蓄水、排水、潅漑の大型多目的水利工事で、九百年にわたってその効果が持続した。

 明清の水利建設で最も重要なものは黄河の治水であった。まず潘季馴(はんきじゅん)(一五二一〜一五九五年)(注126)の「堤を築いて水を束ね、水をもって沙を攻むる」方法があり、後には(ちん)(こう)(一六三七〜一六八八年)(注127)の「首尾を徹して治す」、全流域にわたって治水するという創見があり、また、白英(はくえい)(注128)の大運河浚渫、汪応蛟(おうおうこう)(注129)、袁黄(えんこう)(注130)、徐貞明(じょていめい)(注131)の水利工事や含塩地工事など、治水への貢献は数多い。

 中国の水利事業の歴史に関しては、『中国水利史稿』や『黄河水利史述要』などの専著があるのでそれをご覧いただくとして、本書ではそれを国土整備の角度から略述したが、遺漏が多いかもしれぬ。ここで環境と国土整備の観点からとらえたことを、以下に三点だけあげておきたい。

 まず第一は、周立三がいうように、鄭国渠、都江堰、河套灌渠、太湖等の運河水系と防潮堤建設は、それによって国土が整備され、公益をもたらした効果が顕著であったこと(周立三「関于我国国土整治的方針与任務的探討」『中国国土整治戦略問題探討』科学出版社一九八三年版)。第二は、宋朝を境目とするなら、宋以前の水利工事は能動的な国土整備であった。つまり主導者は人間で、生産、生活、交通のために、堤防や堰、ダムなどを建設していた。それが宋以後は受動的な水利事業に変わった。特に黄河では、黄河の決潰、氾濫、河道の移動がもたらす災害にふりまわされて、防戦一方の受け身にならざるをえなかった。第三は、古代の水利建設のうち一部の工事は、弊害ばかりが大きかったことだ。それは、湖を囲いこんで田畑を作り、海を埋め立てて田畑を作るといった干拓工事のことで、環境の角度からみれば、生態のバランスを崩す悪影響をもたらし、経済の角度からみてもそれによる損失を埋め合わせることはできない。これらは失敗の例であって、一概に古代の国土整備は良かったということはできない。

 

五 都市建設と交通

 

人が多く集まる城邑が出現して以来、重要な環境形態の一つとして都市が登場することになる。都市と都市をつなぎ、都市と田舎をつなぐ交通路線は、現在の国土計画の中でも重要な内容である。だから古代の都市計画と交通とを研究していけば、現在の国土計画を合理的に組み立てていく上で大いに参考になる。

中国の都市建設は、上古の五帝時代にまでさかのぼることができる。『世本』の作篇に「鯀、城郭を作る」とあるのがそれで、禹の父である鯀が都市の建設を手がけて、夏の時代にはすでに相当な規模の都市が存在していたことが分かる。殷になると都市は更に発展した。湖北省黄陂県盤龍(ばんりょう)城と河南省鄭州で発見された殷代前期の遺跡からは、当時の都市は規模が大きいだけでなく、かなり研究して計画されたあとがうかがえる。すでに排水問題が考慮されていた。

周になると更に都市建設は緻密になってくる。周の敬王十年(紀元前五一〇年)、晋が各国諸侯を率いて周王のために洛陽を建設する際、着工の前に司馬弥牟(びぼう)(注132)が王城の高さ、長さ、幅はもちろん田と田の間の水溝の土石の容積、必要な人的労働力と資材、各国人夫の往復距離数と必要な食糧数まで計算していた。このように周到に工事計画を立てたために、工期は飛躍的に縮まっている。

 『管子』乘馬篇には国都建設の原則が明確に記されているのでそれをみてみよう。

 

  およそ国都を建設するには、大きな山のふもとに設定しないとすれば、必ず広い河川のほとりにしなければならない。そうすれば高い場所にあっても干ばつの危険に近づかず、水の利用に不足がなく、低い場所にあっても水害の危険に近づかず、水溝の堤防建設を省くことができる。天の素材により、地の利を利用するのであるから、城郭は必ずしも定規で引いたように整然としている必要はなく、道路は必ずしも水盛りや墨縄で計ったように平坦で真っ直ぐである必要はない。

 

斉の首都臨はまさにこうした原則にのっとって建設された国都で、すでに前述したようにその計画は非常に合理的なものであった。ちなみに当時の人口は約百万人であった。斉では臨よりやや小さい都市の例として定陶(ていとう)をあげることができる。

 春秋時代では都市の規模にいくつかの制限があったが(例えば、諸侯国の都城は周囲九百丈を越えてはならず、卿大夫の市城は最大三百丈、最小百丈という制限。一丈は二二五センチメートル)、戦国時代にはこうした制限を越えた「千丈の城、万家の邑」(『戰國策』趙策三)がたくさん現れた。

 戦国時代では水陸交通はすでに相当に発達していた。陸路についていえば、斉と趙を結ぶ午道(ごどう)や、成皋(せいこう)の路、太行の道、漢中と巴蜀を結ぶ千里(せんり)桟道(さんどう)などはよく知られている。魏のような平原地帯では交通は更に発達し、「諸侯は四通し、条達輻湊す」(枝が四方にのびるように四方八方に通じている)(『戦國策』魏策一)という状態であった。

 秦が六国を統一すると、始皇帝は命令を下して各国の古い城郭を壊させ、要塞や砦を取り払わせ、河の障害物を排除させ、紀元前二二〇年には馳道(ちどう)(皇帝貴人の通る道)を建設させた。馳道は咸陽を中心として、東は斉と燕に通じ、南は呉と楚にまで達し、基礎は高くかつ堅固で、幅五十歩(六七.五メートル)、三丈(六.七メートル)ごとに青松一本が植えられていた。紀元前二一二年には蒙恬に命じて、咸陽から北へ雲陽を経て九原(きゅうげん)(内蒙古包頭市の西北)に通じる、距離にして千八百余里(七三〇キロメートル)におよぶ直道(ちょくどう)を建設させた。また、常頞(じょうあん)に命じて「五尺道」(注133)を修築させ、更に始皇帝は百越の地を攻めるときに五嶺を乗り越える「新道」(注134)を建設し、湘江と漓江をつなぐ霊渠(れいきょ)(注135))を開いた。こうした大規模な交通網建設は大きく経済発展に貢献したのである。

 

   五尺道

 

霊渠

 

前漢の有名な都市は二十余り。なかでも長安、洛陽、臨、邯鄲、宛、成都、寿春、呉(今の蘇州)、番禹(今の広州)などが大きい。長安は当時のローマより三倍以上の大きさがあり、周囲六十里(二四.三キロメートル)、十二の門があり九つの市があった。城門の下には石積みとレンガ積みの下水道があり、十二両の大型車が横に並んで走るほど広い道路が通じ、長安全体が一つの整った建築体であった。面積のうち半分は宮殿が占め、残る半分は市場と里が占め、里は百六十あり、家屋が櫛のように立ち並び、路地がまっすぐ通って整然としていた。城門に通じる大通りは平行して三本が通っており、全市の八つの街と九つの大通りには槐、楡、松、柏の樹木が植えられてあたかも絵に描いたような風景であった。これらは紀元前一九四〜紀元前一九〇年の間にできあがったが、誰が設計したのか今も知られていない。

漢代では外国との交通が一段と発達していた。南北二つのシルクロードは玉門関から出発してともに古代ローマ帝国に通じ、中国西南部からミャンマーに通じる陸路と、広東を経由する海路もこのときすでに開かれていた。

 長安は六世紀の隋朝になっても拡充がはかられている。建築家()文ト(ぶんがい)の指揮の下、五八二年六月より新都大興城の建設が始まり、その年の十二月に完工した。新都城内には南北に十四条、東西に十一条の大通りがあり、坊里は全部で百八、道路の交通は便利で秩序正しく整然としていた。その都市設計は合理的で、道端には排水溝、街路樹がならび、配置は対称的で、坊里の区画は整然とし、まさに古代都市計画の傑作と称されるに値するものであった。この大興城の建設は唐の長安城建設の基礎となり、かつまた洛陽城建設のモデルにもなった。

 宋の京(開封)は十世紀から十二世紀にかけて人口は百二十万人、世界最大の都市であった。長方形の区画で、隋唐の坊里の型をうち破って職能によって明確に区分けし、配置は完全、建築は凝ったものであった。京以外の都市、蘇州、杭州、江寧(南京)、成都、広州、太原、揚州なども、北宋において非常に栄えた都市であった。南宋の首都臨安(杭州)の周囲は七十里(二八.三キロメートル)、人口は百二十万人に達し、水路と道路は縦横に交錯して家屋が密集し、その間には尺寸の空間もなく、宋以前の里坊制に復古したものであった。南宋のその他の大都市には、建康(南京)、成都、鄂州(武昌)、沙市、瀘州などがあり、橋梁の建設では、泉州の洛陽橋(注136)、安平橋が有名である。

 洛陽橋

安平橋

 

 北京は、金では中都、元では大都といい、明清の首都でもあり、その規格には特色があった。金の中都は一一五一年、張浩(ちょうこう)孔彦舟(こうげんしゅう)の設計で二年後に完成し、その型は京を手本として正方形であった。元の大都は、金の中都が蓮花池水系を水源とした拠点を放棄して、東北の郊外に新しく建設されたものであった。その規格は基本的には『周礼』の考工記にある、

 

匠人、国を営むに、方は九里、旁に三門。国中に九経九緯あり、経(東西南北の道)は九軌(十六.二メートル)あり。祖廟を左に社稷を右にし、朝廷を(おもて)にし市を後ろにする。

 

という原則を遵守し、おおむね正方形の大都の四面にはそれぞれ三門(北面のみ二門)があり、縦横に走る道路は碁盤の目のようで、中央前部に宮廷、後方に市場、左方に太廟、右方に社稷壇があり、元の科学家劉秉忠(りゅうへいちゅう)と郭守敬が主に設計にあたった。明清でも北京城に対して幾度も改造を加え、現在のような姿になった。

 以上に述べてきたように古代の都市建設は周到に計画し設計されたものであることが分かる。西周初年の洛陽建都にすでにそれがあらわれており、『尚書』洛誥には周の成王が自ら見取図を審査したことが記されている。洛陽は綿密に計画して建てられた世界最古の都市なのである。漢、唐の長安は市街が整然とならび、道路が平たく真っ直ぐで、やはり歴史上傑出した都市であった。元の大都の場合は『周礼』考工記の原則にのっとって全体的にも局部的にもそれを遵守して建設を進めた。

 わたしたちは古代の都市建設から、緑化、交通運輸、供排水から市政のありかた、機能の分割におよぶまでたくさんの経験を学ぶことができた。それは現在の国土計画と環境保護を押し進める上で大きなよりどころとなるはずである。

 

まとめ

 

 中国古代において、国土と環境を整備する理論と実践の存在は、少なくとも先秦時代にまでさかのぼることができた。昔の人々は国土整備に対して明確な意識をもち、その内容は広範なものであったと『禹貢』や『管子』の古文献は伝える。中国では数千年にわたって、国土整備や資源調査、土地測量、水利建設、都市計画、交通、緑化におよぶ実践を重ねて貴重な経験を積んできた。これらはすべて現代の国土整備と環境保護の「前車の鑑」となるものである。