大業拾遺記について


 隋煬帝の宮中秘事を、史実に沿いながら描く『大業拾遺記』は、文献学の上でも目録学の上でも、興味深い材料をわたしたちに提供してくれる。それについては李剣国に詳細な報((1))があるのでそちらにゆずるが、小説史の上でいえば、この書が『隋煬帝海山記』、『迷楼記』、『開河記』の成立に影響を与えて唐宋小説史をにぎわし、明・馮夢龍はこの書の原文と構成をほぼ踏襲して『醒世恒言』巻二十四を著しているし、また同様の書として、唐・杜宝の『大業拾遺』一巻、『大業雑記』十巻、趙毅の『大業略記』三巻があり、この書との関係が推知される。
文献学の上でいえば、この書に登場する陳後主の「小窗詩」に関して、宋代の詩話には後主の作ではなく唐・方の作であるという主張(北宋・蔡居厚撰『詩史』、北宋末南宋初・阮閲撰『詩話総亀』、南宋・姚寛撰『西溪叢語』、南宋・王明清撰『揮塵録余話』)と、後主の真作の詩と見なす北宋末南宋初・釈恵洪撰『冷斎夜話』の見解があり、それを受けて、詩集の編纂においても異同がみられるという事象がある。『全唐詩』は巻七百七十五に方の失題詩として輯録しているが、明・馮惟訥輯『詩紀』巻一百八は陳第一後主の末尾に「付録」と題した項目を設け、「按ずるに小説家載する所の後主と煬帝の諸詩は、辞多く類せず、其れ後人の依託たること疑い無し。今別に此れを付して以て省覧に備ふるのみ。」と付記してこの詩を輯録している。これは明・張溥輯『漢魏六朝一百三家集』も同じで「付」と題してこの詩を輯録しているが、丁福保輯『漢魏六朝名家集初刻』は「付録」も「付」もなくこの詩を陳後主集の末尾に輯録している。しかし、同じ丁福保が編纂した『全漢三国晋南北朝詩』は、「按ずるに小窗詩は、姚寛の西溪叢話に、此れ乃ち唐人方の詩なりと云ふ、故に載せず。」と按語を記すのみでこの詩を採録せず、欽立輯校『先秦漢魏晋南北朝詩』は按語をも記すことなくこの詩を採録していない。
また、目録学の上でいえば、北宋・王尭臣等奉勅撰『崇文総目』巻二史部雑史類上に「大業拾遺一巻 顔師古撰」、『大業拾遺』と録されているのが最初で(『宋史』巻二百三芸文志二伝記類も同じ)、宋元代の目録はこの書を『南部烟花録』一巻と録し(南宋・晁公武撰『郡斎読書志』巻二上雑史類、南宋・尤袤撰『遂初堂書目』小説類、元・馬端臨撰『文献通考』巻一百九十五経籍考二十二雑史)、また『大業拾遺記』一巻と録し(『遂初堂書目』雑史類)、また『大業拾遺録』と録し(南宋・鄭樵撰『通志』巻六十五芸文略第三雑史)、また『隋遺録』一巻と録す(『宋史』巻二百六芸文志五小説類)。
 このうち、現存する版本では『大業拾遺記』として伝わるこの書が、宋元の目録に『大業拾遺』『大業拾遺録』とも録されているのは、書名の末字をこのように記した一巻本が通行していたからであろうし、また『南部烟花録』という書名は、この書の巻末に見える跋文に、原名は『南部烟花録』という、と由来が明記されていることから、この原名を冠した一巻本が通行していたからであろう。だが『隋遺録』という書名は、『宋史』芸文志においてだけ見え、いささか突然の感がする。これについて李剣国は「『宋志』だけに見えるのは、宋人が改題したからだろう」といい、李時人も「『隋遺録』の名は後人が擬作したもの((2))」というように、元来伝わる書名ではないようなのだが、南宋・計有功撰『唐詩紀事』巻四虞世南に、「顔師古『隋朝遺事』載、洛陽献合蒂花、煬帝令袁宝児持之、号司花女。…」と見えることからすると、当時においては『隋遺録』のみならず『隋朝遺事』とも改題された版本が通行していたと考えられる。したがって『宋史』芸文志に録された『隋遺録』という書名に突然の感をいだく必要はないのである。これらのことから考えると、この書は相当に広く世に出まわり、またひとびとから受け入れられていたといえよう。
 宋・左圭輯『百川学海』はこうした伝本のうち『隋遺録』一巻を上下二巻に分かちて輯録したもので、元末明初・陶宗儀纂、明末清初・陶歿重輯『説郛』は『大業拾遺記』一巻の伝本を輯録したものであるよう((3))

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