大業拾遺記(隋遺録)跋訳注


【跋】『説郛』一百十収『大業拾遺記』。『百川学海』庚集、乙集『隋遺録』。『香艶叢書』、『紅袖添香室叢書』、『宮遺事』、『筆記小説大観五編』収『大業拾遺記』。魯迅校録『唐宋伝奇集』収『隋遺録』。

 

右の『大業拾遺記』とは、上元県は南朝の古都で、そこに梁のとき瓦棺寺の閣を建てたことにはじまる。閣の南隅には二部屋があり、そこを閉めたまま歳月が経ちいつのまにか忘れられていた。唐(武宗)の()昌中(八四一〜八四六年)に仏寺を(たく)()せよとの詔書が発布されたので、二部屋が開けられた。すると、約千余りの(**)筆の書が見つかり、中に一帙の書があった。その多くはどれも損壊していたが、文字で値打ちがあるものは、『隋書』の下書きだった。その中に生の白藤紙の軸が数幅あって、『南部烟花録』と題されていた。僧の志徹がそれを手に入れた。種々の仏典が(もや)されることになり、僧侶たちはその珍貴な軸を惜しみ、躍起になって紙面の末尾を開いた。軸をよく見ると、どれにも「魯郡(***)文忠顔公」(顏真卿)の名があり、自らこれを書き写したと題署されていた。この書きものが(さき)の荀筆であることは、明白に知られた。志徹がこの昔のことを記したものを手にいれて、『隋書』と比べてみることに及んだところ、多くは隠語で、特にこじつけがあり、事柄が相当脱落していた。国初の文武百官は争って王道を輔政したから、顔公(顏真卿)は華麗奢靡な以前の事迹を良しとせず、だから削除したのだろう。今堯風(****)が回復し、天子は有コの車に乗っている時世である。ただただ、この書が滅んでしまって、文人才子の話の種とならないのは惜しまれる。だから編纂して『大業拾遺記』とした。本文の欠落はおよそ七、八割あるが、それをすべて『隋書』によって補った。

*唐の武宗は会昌五年八月に「仏寺を毀し()いて僧尼を還俗せしむ制」を発して、天下の寺院四千六百余所を壊し、男女の僧侶二十六万五百人を還俗させ、招提、蘭若四万余所を壊させた。これは中国仏教史上に四度にわたって行われた「三武一宗」の法難の一つである。三武とは、北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武宗で、一宗とは、後周の世宗をいう。

**魯迅及び『百川学海』収『隋遺録』、『宮遺事』収『大業拾遺記』は、「荀筆」とするが、『説郛』百十収『大業拾遺記』、『香艶叢書』収『大業拾遺記』、『紅袖添香室叢書』収『大業拾遺記』、『筆記小説大観』五編収『大業拾遺記』は、「筍筆」とする。また、南宋・周南撰『山房集』巻五、宋・闕名撰『五色線』巻下も「筍筆」とし、宋・晁公武撰『郡斎読書志』巻二上雑史類も、「『南部烟花録』一巻…僧志徹得之于官閣筍筆中」とし、宋・孔伝撰『続六帖』(『唐宋白孔六帖』巻十四筆硯十六)も、「瓦官筍筆」(瓦棺寺の筍筆)と題してこの跋文を引き、いずれも「筍筆」とする。筍筆とは、(たけのこ)形の穂先の筆のことをいう。

***「魯郡文忠顔公」は、宋・闕名撰『五色線』巻下「瓦棺筍筆」と宋・孔伝撰『続六帖』「瓦棺荀筆」とは「魯郡顔公」となり「文忠」二字が脱落している。『五色線』の「瓦棺荀筆」の一文を訳して紹介した小南一郎は、「魯郡顔公」を「顔師古」とみなしているが(『魯迅全集』第十二巻、一八〇頁、学習研究社)、『五色線』と『白孔六帖』は文を要約して採録してあることから、両書の「魯郡顔公」は「魯郡文忠顔公」つまり顔真卿と考えるのが自然であろう。

       ****尭風:古代の尭帝の時は、帝のコが高くて、よく教化が行われ、世の中は太平で栄えた。李剣国は、これを晩唐宣宗の大中年間のことと比定する(前掲書五六〇頁)。

 

 


『山房集』輯録 跋 訳


 

 

【又題】南宋・周南撰『山房集』巻五南部烟花録

 

上元県は南朝の古都で、そこに梁のとき瓦棺閣を建てたことにはじまる。閣の南隅には二つの籠があり、それを閉じたまま歳月が経ちいつのまにか忘れられていた。唐(武宗)の会昌の年(八四一〜八四六年)に仏寺を拆毀せよとの詔書が発布されて、二つの籠が開けられた。すると、約千余りの筍筆の書が見つかり、中に一帙の書があった。どれもかなり損壊していたが、文字で値打ちがあるものは、『隋書』の下書きだった。白藤紙の軸が数幅あって、『南部烟花録』と題されていた。僧の志徹がそれを手に入れた。仏典が(もや)されることになり、僧侶たちは珍貴な軸を惜しみ、躍起になってそれを取り、文字を見開いた。軸をよく見ると、どれにも「魯郡文忠顔公」(顏真卿)の名があり、自らこれを書き写したと題署されていた。この書きものが(さき)の筍筆であることは、明白に知られた。志徹がこの『隋書』の下書きをわたしに見せてくれたので、ついに、この昔のことを記した書きものを手にいれ、『隋書』と比べることに及んだところ、多くは隠れて文をなさず、時にはこじつけがあり、事柄が相当脱落していた。国初の文武百官は争って王道を輔政したから、黄門の顔公(顏真卿)は筆で以前の事迹をおごって書きたいとは思わず、だから削除したのだろう。今堯風が回復し、天子は有コの車に乗っている時世である。ただただ、このことが埋もれてしまって、文人才子の話の種とならないのは惜しまれる。だから『大業拾遺記』を編纂した。もとの字の欠落は六、七割あるが、それをすべて『隋書』によって補った。



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