大業拾遺記(隋遺録 巻上)訳注


 

 

(隋煬帝)大業十二年(六一六年)、煬帝は江都(揚州)行幸することになり、越王(ゆう)に東都(洛陽)の留守を命じた。

歴史的事実としては、留守を命じられたのは越王楊で、楊侑(後の恭帝)はこのとき越王ではなく代王。『隋書』巻四煬帝紀下に、「大業十二年…秋七月…甲子、幸江都宮、以越王…等総留後事。」とある。明・馮夢龍撰『醒世恒言』巻二十四は「越王」としている。

宮女の半分は行幸に随従しないことになったので、争って泣きながら帝をひきとめて、

 

遼東は小国で、わざわざ行幸なさるまでもございません。どうか他の人にお行かせなさいますよう。

 

と言った。車に手をかけて心から惜しみ、指の血が鞅(むながい 車を引く馬の首にかける皮ひも)を染めた。帝は思いを改めず、戯れに飛白(墨の色がかすれた書体)で二十字の詩を書いて留守をまもる宮女に与えて、

 

我は江南の()きを夢み          我夢江南好

遼に征くも亦偶然               征遼亦偶然

但だ顔色を留めて在れ          但留顔色在

離別は只だ今年のみ             離別只今年

わたしは江南の美しさを夢に見、このたび遼東に行くのも偶然のこと。お前たちは美しさをとどめていておくれ、離別は今年だけだよ。

 

と詠んだ。

帝の車は出立し、将兵百万が前を行く。大きな橋がまだできていないので、別に雲屯将軍の麻叔謀に、黄河を(さら)って水の堤に入れ、巨大な艦船が通れるようにするように命じた。麻叔謀は命令を引き受け、はなはだ過酷に鉄脚木鵝(もくが)(水深測量具、上流から流して止まればそこが浅いことがわかる)を使って水深を測り、木鵝が止まれば、河を浚う人夫が忠誠ではないと、部隊を水の中で水死させた。子供が泣いていても、「麻胡が来た!」と言うのを聞けば、今でもすぐに泣きやむ。その流言がかくも人を畏れさせたのだ。

帝が都を離れて十日のこと、宋の(*か)()が献上した車のところにおでましになった。車の前輪は高く広く、大きな釘が刃物となり、後輪は低く、柔らかい(にれ)の木で造って、滑らかでひっかからないようにし、牛に御しやすくさせている。都から(べん)郡(開封)まで、毎日車に陪従する女がついた。車の帷帳には鮫翕(うすぎぬ)の網を垂らし、玉片の鈴をつなぎ連ね、進めば玲瓏(リンリン)と美しい音、それが車中の談笑の声をやわらげて、周りに聞こえないようにと願っているかのようだった。

何妥の名は『隋書』巻七十五儒林伝に見える。その何妥伝は、「十七にして技巧を以て湘東王に事ふ。」と伝える。何妥は隋の文帝に仕えて国子祭酒となり、その官職のまま卒去している。『隋書』巻六十八何稠伝に、何妥の兄の子、何稠の伝がある。何稠は、煬帝が揚州に行幸する際、煬帝の命に応じて、工人十万余人を使って金銀銭物を豊富に用いた、車や車の飾りおよび百官の儀服などを造っている。唐・闕名撰『迷楼記』(『煬帝迷楼記』)には、「大夫何稠、童女の車を進む。車の制度(つくり)絶小にして、只だ一人を容るるのみ。機有りて其の中に処き、機を以て女子の手足を(ささ)ふれば、繊亳(すこし)も動くこと能はず。」云々と、何妥ではなく何稠が造った車が登場している。

長安から、車に陪従する娘袁宝児が献納された。年の頃は十五、腰つきが細く柔らかく、艶めかしきことこの上ない。帝はこよなくお気に召し格別な思い入れ。時に洛陽から(へた)つきの迎輦(げいれん)花(天子の車を迎える花)が捧げられ、

 

嵩山の小村で採りましたが誰もその名を知らず、採った者がこれは珍奇なものとおもい献納しました。

 

とのこと。ちょうどそこに帝の車がお越しになり、「迎輦」とお名づけになった。花の外側は深い紫、内側には白い脂が馥郁と香り、花粉をつけた(しべ)の、その芯は深紅、花の(がく)は争って二つの花弁をつけていた。枝と幹は翡翠色で通脱木(つうだつぼく)に似て、(とげ)がなく、葉は丸く長く薄い。その香りは馥郁として、着物に染みこめば数日消えず、嗅げば人を眠らせない。帝は(袁)宝児にその花を持たせて「()花女」(花を持つ女)と呼んだ。そんな時帝は(**ぐ)世南(せいなん)に命じて帝の側で「征遼の指揮コ音の勅」(遼を征討する指揮と報償に関する天子の命令)を起草させていたが、宝児はそれをしげしげと見ていた。

*司花女:後周・王任裕撰『開元天宝遺事』に、「花妖。初有木芍薬、植於沈香亭前、其花一日忽間、一枝両頭、朝則深紅、午則深碧、暮則深黄、夜則粉白、昼夜之内、香艶各異。帝謂左右曰、此花木之妖、不足訝也。」とある。朝には深紅の色をつけ、昼は深緑色になり、暮れには深黄色になり、夜には白色になる花で、昼夜の内でも香りと色がそれぞれ異なる、神秘な芍薬。宋・皇都風月主人輯『坂x新話』巻下「袁宝児最多態」周夷評は、『開元天宝遺事』を引いて司花女袁宝児の多態さに関連づけている。

**虞世南:陳初から唐初の人。呉の顧野王  に学を受け、文は徐陵から高い評価を受けた。隋煬帝の大業中は秘書カの任にあり、煬帝からその才能を愛された。『旧唐書』巻七十二、『新唐書』巻百二に伝がある。

帝は虞世南に言った。

 

昔からの言い伝えによると、(*ひ)(えん)は手のひらの上で舞いが舞えたというが、朕はいつも、儒生たちが表現を飾ったのであって、人間にどうしてそのようなことができようか、と思っていた。ところが今、宝児を手近に見て、まさしく昔の言い伝えが本当だと分かった。しかし無邪気なしぐさが多い女で、今、お前をしげしげと見つめている。お前は才人だ。あれをからかった詩を作るがよい。

*飛燕:漢・成帝の后、趙飛燕。漢の伶玄の作と伝わる『飛燕外伝』に、「繊便軽細、挙止翩然、人謂之飛燕」とある。また『漢書』巻九十七下外戚伝孝成趙皇后に、「学歌舞、号曰飛燕」とあり、顔師古は、「以其体軽故也」と注している。趙飛燕を題材にした唐宋小説に、『飛燕遺事』(唐・闕名撰)、『趙后遺事』(宋・秦醇撰)があり、唐・楊貴妃のことを記した『楊太真外伝』(唐・楽史撰)巻上では、『漢成帝内伝』を引いて、「漢成帝獲飛燕、身軽欲不勝風。恐其飄、帝為造水晶盤、令宮人掌之而歌舞」と描写している。

 

虞世南は詔に応じて、絶句を作った。

 

  鴉黄を画くを学び 半ばにて未だ成らず

 学画()黄半未成

  垂れし肩 ()れし袖 太だ(おろ)()なり

                          垂肩袖太

  (おろか)に縁りて却って得る 君王の(おし)

却得君王惜

  長く花枝を把りて 輦に(よりそ)って行く

長把花枝傍輦行

額に描く黄粉の引き方を学んだのに、まだうまくできない。なで肩の指の先には袖が垂れ下がり、なんとも嬌痴あふれる姿。その痴態によってかえって帝の寵愛を得、いま花の枝を手に持ち、帝の車に寄り添っている。

鴉黄:婦人の額に化粧する黄粉。六朝の女性は黄粉を額に引いた。軽黄ともいう。信の「舞媚娘」に、「眉心濃黛直點 ,額角輕黄細安」(眉心の濃黛 直に点じ、額角の軽黄 細く安らかなり)(『楽府詩集』巻七十三雑曲歌辞)とある

 

帝は大いに喜んだ。

 郡に着くと、帝は()舟に乗り、妃の(**し)(ょうひ)鳳舸(ほうか)に乗った。錦の帆と彩飾されたとも綱があり、贅沢を極めていた。

龍舟:宋・曽慥輯『類説』巻四に引く、   唐・杜宝の《大業雑記》船脚に、「隋煬帝江都に幸するに、洛口より龍舟を御す。高さ四十五尺、濶さ五十尺、長さ二百尺、分けて四重とし、上一重には殿堂有り、次の一重には百六十房有り、下の二重には内侍及び船脚を安んず。船脚とは即ち水工の名なり」とある。

**蕭妃:煬帝の后妃。煬帝が晋王の時王妃となる。粱明帝の娘。『隋書』巻三十六后妃伝に、「后性婉順、有智識、好学解属文、頗知占候」とある。

船の前は舞台となっていて、舞台の上には日よけの簾が垂れ下がっている。簾は蒲沢国(陝西省北部)から献納されたもので、山を背負うほど巨大な(みずち)の睫毛の糸と蓮根の糸とで、小さな珠玉を通して、睫毛の間に編み込んであるため、朝日が強く照っても、光は差し込んでこなかった。船ごとにすらりと背が高く色の白い美女千人を選んで、彫刻を施した板に金をちりばめた楫を取らせ、それを「殿()脚女」と呼んだ。

殿脚女:唐・闕名撰『開河記』(『隋煬帝開河記』)には、「于呉越間取民間女年十五六歳者五百人、謂之殿脚女。至于龍舟御●、即毎船用彩纜十条、毎条用殿脚女十人、嫩羊十口、令殿脚女与羊相間而行、牽之。」十五六歳の殿脚女を集めて船を引かせたことが描かれている。もともと、隋煬帝の大きな船を引かせる船工を殿脚といった。『隋書』巻二十四食貨志に、「又造龍舟鳳番、黄龍赤艦、樓船篾舫。募諸水工、謂之殿脚、衣錦行屐、執青絲纜挽船、以幸江都。」煬帝の江都行幸の際、龍舟、鳳などの巨船を殿脚に引かせたことが見える。

ある日、帝は鳳舸の上に登り、殿脚女の呉絳仙(ごこうせん)の肩によりかかった。そのふくよかで美しいさまを喜んで、他の多くの女を寄せつけず、とても絳仙を可愛く思って、いつまでも動かなかった。絳仙は長く美しい眉を描くのがうまかった。帝はこらえきれずに、車を回して絳仙を呼び寄せ、(しょう)()(帝の女御の称)の女官位を授けようとした。ちょうどその時絳仙は玉職人の万群(まんぐん)に嫁いでいたため、それはかなわなかった。帝は寝てもさめても考えたあげく、龍舟の筆頭かじ取りに抜擢し、(こう)(どう)夫人と名づけた。それ以来、殿脚女たちは争って長い描き眉をまねした。内宮の官吏は、毎日、(*ら)子黛(したい)(こく)を支給し、これを(がりょく)と呼んだ。

螺子黛:眉を引く顔料。六朝では眉を告Fに染めることが流行し、その風は隋唐においても衰えなかった。徐陵の「雑曲」に、「国瘢g顏兩相發、千嬌百念情無歇」(国瘢g顔 両つながら相い(あらわ)れ、千嬌百念 情()くること無し)(『楽府詩集』巻七十七雑曲歌辞)とある。

螺子黛の産地はペルシャで、一個の値段が十金であった。後には賦税が不足して、銅黛を混ぜて支給するようになったが、絳仙だけはとぎれることなく螺子黛が与えられた。帝はいつも簾のかげから絳仙を見つめ、いつまでたってもそこを離れなかった。そんな時、役人の内謁者(*ないえつしゃ)をふり返ってこういったことがある。

*内謁者:内侍省(宮廷内部の事を司る)の属官。内外の伝達通報の事を扱い、宦官が任用された。『隋書』巻二十八百官志下に、「内侍省、内侍、内常侍各二人、内給事四人、内謁者監六人、内寺伯二人、内謁者十二人‥。並用宦者。」とある

 

昔から「秀色は(くら)うべきが若し」(美しい色つやの女は(くら)いつきたいほどだ)(陸機「日出東南隅行」)というが、絳仙はほんとうに飢えを癒してくれる。

 

そこで「持楫(じしゅう)篇」((かじ)を持つ女)の歌を作って吟じ、絳仙に与えた。

 

旧曲 桃葉を歌うも                    旧曲歌()

  新粧は 落梅よりも艶なり             新粧艶(**)

  身を()って 軽く楫に倚り             将身倚軽楫

  知る是れ 江を渡りて来るを           知是渡江来

    古歌で晋の王獻之は自分の愛妾である桃葉の美しさを歌っているが、目新しいそなたの粧いは梅の花よりも美しい。そなたの身体がしなやかに楫にもたれかかっているのを見て、ああ河を渡って来たのだなと分かる。

桃葉:楽府の呉声曲辞の名。『隋書』巻二十二五行志上に、「陳時、江南盛歌王獻之『桃葉』之詞曰『桃葉復桃葉、渡江不用楫・・・』」陳の時、江南では盛んに王獻之の桃葉の歌が歌われたとある。『楽府詩集』巻四十五呉声曲辞桃葉歌に引く『古今楽録』に、「桃葉歌者、晋王子敬之所作也。桃葉、子敬妾名。縁於篤愛、所以歌之。」桃葉は王獻之の愛人の名で、それを歌ったものとある。

**落梅:梅花模様の化粧。『太平御覧』に引く『雑五行書』に、「宋武帝女寿陽公主、人日臥於含章殿簷下、梅花落公主額上、成五出花、払之不去。皇后留之、看得幾時、経三日、洗之乃落。宮女奇其異、竟效之。今梅花粧是也。」人日の日(正月七日)、ぽかぽか陽気にうたた寝をしていた宋武帝の娘寿陽公主の額に梅の花が落ち、払っても取れず三日間そのままだったことから、宮女たちがまねをして梅花粧をしたとある(『太平御覽』巻三十時序部人日引『雜五行書』)。『唐五代伝奇集』に、「後世にいう花鈿、花子、眉子と同じ。種々の形に切り抜いた花模様を眉間に貼った。唐の李復言の『続玄怪録』定婚店に、『其眉間、常貼一花子、雖沐浴閑処、未嘗去。』とある。」という(二三三頁。中州古籍出版社一九九七年)。

 

帝はこの歌を千人の殿脚女に歌わせた。

そうした頃、(*え)(つけい)から耀光綾(ようこうりょう)というものが献上された。それは、綾の紋様が盛りあがっていて、光線の具合によって光彩を放つ織物だった。これは、越の人が順風に乗って、(**せき)帆山(はんざん)の下で舟を浮かべて、野生の繭を取り、糸繰りをしたことがあった。そのとき、夜に糸繰り女が見た夢の中に仙人が現れて、

越溪:越国の美女西施が紗(うすぎぬ)を洗った所。李白は五言古詩「西施」で、「西施越溪女、出自苧蘿山。秀色掩今古、荷花羞玉顔。・・・」(西施は越溪の女、出自は苧蘿山。秀色は今古を掩い、荷の花も玉顔に羞ず。・・・)と歌っている。

**石帆山:浙江省紹興の東にある山。山の東北に、帆のように孤立した岩がある。謝靈運の『遊名山志』に、「破石溪の南二百餘里に、又石帆有り。脩廣と破石と度を等しくす。質色も亦た同じ。傳えて云う、古え人有りて破石の半を以て石帆を為ると。故に名づけて、彼を石帆と為す。」(『藝文類聚』巻八山部下石帆山引)とある。

 

禹穴は三千年に一度開かれる。お前が取った野繭は、江淹の詩文集の中の紙魚(しみ)が姿を変えたものだ。その糸で着物をつくれば、きっと奇妙な花紋があらわれよう。

 

と告げた。織ってみると、果たして夢の通りであったため、それを帝に献上したのであった。帝はその耀光綾を司花女の袁宝児と殿脚女の呉絳仙にだけ与え、他の女には与えなかった。蕭妃がそのことを嫉んで喜ばなかったため、二人は次第に帝の寵愛を受けることがなくなった。

帝はいつも酔っていくつかの宮殿で遊んだが、たまたま 宮婢の羅羅(らら)という女と遊んだ。羅羅は蕭妃を畏れて、帝をよう迎え入れず、()経で身体がすぐれないと断り、帝の側に寝ることをよしとしなかった。そこで帝は、からかって

 

箇人(そなた)無頼(かわゆ)く 是れ横波         箇人無頼是波

 黛染めし驍ォ(かしら)に 小蛾(むら)がる 黛染鳬@簇小蛾

 幸いにして好く(われ)を留むれば 伴に夢を成すに

幸好留儂伴成夢

 儂を留めず()きて (おも)いは如何 不留儂住意如何

そなたは可愛く流し目を送り、黛をひいた大きな額は、小さな蛾が群がっているかのよう。うまく行けば私をそこに留めて共に同じ夢をみるのに、私を留めないとはどんな気持ちなのだ。

*原文は「程姫之疾」:漢景帝の妃、程姫が月経を理由に景帝の寝室に上がらなかったことをいう。『史記』巻五十九五宗世家と『漢書』巻五十三景十三王伝に、「景帝召程姫、程姫有所避、不願進。」とあり、顔師古は「月の事を謂うなり」と注している。

 

という詩を詠んだ。帝が広陵(揚州)に行って以来、宮中に呉の方言をまねる者が多かったため、「儂」という言葉を使ったのである。

 

帝は放心状態がゆゆしくなると、往々にして妖鬼に惑わされた。()公宅の鶏台(けいだい)に遊んだ時、夢うつつのうちに陳後主と遇った。

*呉公台:劉宋の大明三年、沈慶之が竟陵王誕を攻める時築いた台。弩台ともいう。のち、陳の呉明徹が広陵を攻める時に、ここを増築した。よって呉公台という。『隋書』巻四煬帝紀下によると、煬帝は宇文化及、司馬コ戡などの反乱により五十歳で亡くなり、蕭后に埋葬されたが、右禦衛将軍の陳稜がこの呉公台の下に埋葬しなおしている。白居易の「隋堤柳」詩に、「土墳数尺 何処に葬れる、呉公台下 悲風多し」とある。鶏台:唐・趙は「広陵道」詩で、「闘鶏台辺 花塵を照らし、煬帝陵下 水春を含む」とうたい、唐・羅隠は「所思」詩で、「梁王の兎苑 荊榛の裏、煬帝の鶏台 夢想の中」とうたっている。

後主は昔のように帝を「殿下」と呼んだ。後主は薄絹の黒い頭巾をかぶり、青いゆるやかな袖、長い裾の着物を着、高フ錦で縁取りした紫の紋がはいった四角い(くつ)をはいていた。舞女(まいひめ)が数十人、左右に並んで付き従っていた。その中の一人は極めて美しく、帝はしきりにその女性を見た。すると後主が言った。

 

殿下はこの(ひと)をご存じではないですか。張麗華です。桃葉山(六合県)の前を戦艦に乗って麗華とともに北へ渡ったことをいつも思い出します。あの時麗華が最も忘れられないのは、臨春閣にもたれて東郭(*とうかく)(しゅん)(狡兎)の 紫色の筆をためして、(**が)(こう)(しょう)(絹布の用箋)の上に、尚書令(***)總の「璧月(へきげつ)」の句に答える詩を書いていた時でした。まだ詩を書き終えないうちに、あの韓擒虎(かんきんこ)(隋の総管)が青白混毛の馬を躍らせ、数万の兵をひきいて一気に突撃して来ました。まったく礼儀を知らない奴で、おかげでとうとうこんな状態になってしまいました。

         

*東郭:すぐれた兎。漢・劉向『新序』雑事第五に、「昔者、斉有良兎曰東郭蓋一旦而走五百里」とある。

**模様を圧印した赤色の絹、筆写に用いる。()(こう)(せん):絵を圧印した赤色の箋紙。『隋唐演義』第三十九回は、「那時張麗華方在臨春閣上…写小紅箋、要做答江令的璧月詩句、尚未及完、忽見韓擒虎擁兵直入」、「紅箋」としている。

***江總:陳の尚書令江總。陳後主の側近で狎客の一人。

璧月句:江總の璧月の詩、およびそれに答えた詩は残っていない。『陳書』巻七後主沈皇后伝史臣魏徴論に、「其曲有玉樹後庭花、臨春楽等…其略曰、璧月夜夜満、瓊樹朝朝新。」とある。後主が諸貴人や女学士とともに、艶麗な新詩を賦したときに、後主は「璧月夜夜満」の句を作っている。

 

そう言うと、告Fの紋がついた法螺貝に、紅い(あわ)で醸成した新しい酒を注いで帝にすすめた。帝はそれを飲んでたいへん喜び、そこで麗華に「玉樹後庭花」の舞を舞うようにと頼んだ。麗華は、久しく舞っていないうえに、井戸の中から出てきた後は、腰や手足が受け付けず、もはや昔の姿はありませんと固辞した。帝がそれでも再三にわたって求めると、ゆるやかに起ち上がって、一曲を舞いあげた。

後主は帝に、

 

蕭妃(煬帝の妃)はこのひとと比べていかがですか。

 

とたずねた。帝は、

 

  春の蘭、秋の菊は、共にそれぞれの季節の美しい花だ。

 

と答えた。後主はまた十数篇の詩を作ったが、帝は心にとめず、「小窓の詩」と「侍児の碧玉に寄する詩」だけを気に入った。(後主の)「小窓の詩」にうたう。

 

  (ひる)酔ひて 醒め来たるや晩し   午酔醒来晩

  人無く 夢に自ら驚く          無人夢自驚

  夕陽に 意有るが如し          夕陽如有意   

  (ことさら)(ちかよ)りて 小窗を()らす   偏傍小窗明

昼間から酒をのんでいつの間にか寝てしまい日暮れ時に目覚めた。あたりは静まりかえって人は誰もいず、今見た夢に自分が驚いて目が覚めた。見ると、夕陽に心があるかのように、夕陽がわざと近寄って小窓を照らしている。

 

「碧玉に寄する詩」にうたう。

 

  離別は 腸の猶ほ断たれるがごとく    離別腸猶断

  相思は 骨の(まさ)()けるがごとし      相思骨合銷

  愁魂は 飛散するが若くも             愁魂若飛散

  (たよ)(たよ)って 一たび相い招かん        凭仗一相招

そなたとの離別を考えると腸がちぎれる思いがし、相い思うと骨がいまにも溶けそうになる。そなたの霊魂(たましい)が遠くに飛び去っても、なんとかしてもう一度わたしのもとへ呼びよせたいものだ。

 

張麗華は帝に拝礼して、一篇を求めた。帝はそれはできないと断わると、麗華は笑いながら言った。

 

此処(ここ)(われ)を留めざるも、        此処不留儂

(かなら)ず儂を留むる処有り          会有留儂処

いまここにわたしを受け入れてくれなくても きっとわたしを受け入れてくれるところがある。

という帝の詩を、かつて聞いたことがございますのに、どうしてできないと仰るのですか。

 

帝は仕方なく、麗華のために次のような詩を作った。

 

(かお)を見れば 多事無きも                見面無多事

  名を聞くこと爾許(かくばかり)の時なりき           聞名爾許時

  坐来 百媚を生じ                       坐来生()

  実に箇の ()き相知なり                実箇好相知

あなたの顔を見たところではべつに普通の人と変わりがないが、あなたの名声は今までずいぶん久しく耳にしてきた。あなたは坐っているだけで艶めかしく、まことにわたしのよき友人だ。

*百媚:宋・賀鋳の詞「点絳唇」に、「見面無多、坐来百媚生餘態。後庭春在。折取残紅戴。 小小蘭舟、盪東風快。和愁載。纏緜難解。不似羅裙帯。」とある。

 

麗華は詩をおしいただいたが、顔をしかめて喜ばなかった。後主は帝にたずねて言った。

 

龍舟での遊びは楽しいですか。始めは殿下の治世は堯舜の上をいくと思っておりましたが、今日では、このような遊びに耽っておられるとは。およそ人は誰でも、生まれたからには快楽を得ようとするものですが、むかしは、どうしてあのようにひどくわたくしをとがめたのですか。あの()十六の封書は、今でもわたくしを怏々(おうおう)として楽しませません。

*三十六封書:『南史』巻十陳本紀下に、「隋文帝は晋王広(煬帝)を元帥にして八十の総管を統轄させて陳討伐を進めた。そして璽書(玉璽を押した詔勅)を送って、陳後主の二十悪を暴き、さらに詔書を書き写して三十万枚複写して、あまねく江南の内外に広めた。」とあるとをさす。陳後主の二十悪には、「宝衣玉食、窮奢極侈、淫声楽飮、俾昼作夜。斬直言之客、滅無罪之家、剖人之肝、分人之血。欺天造悪、祭鬼求恩、歌衢路、酣酔宮」などが連ねられていた(『隋書』巻二高祖紀下)。

 

帝は忽ちはっと我にかえり、

 

どうして今日なお、わたしを殿下とよぶのだ。また過ぎ去ったことをもちだしてわたしを責めるのだ。

 

と叱りつけると、その声とともにふぅっと消えた。



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