大業拾遺記(隋遺録 巻下)訳注


 

 

帝が()観宮におでましになったとき、ひときわ景色が澄み渡って美しかった。夜中に起きて、蕭妃とふたりっきりで欄干の前に立った。(れん)(ろう)(すだれのかかったれんじ窓)は閉じており、侍臣は眠っていた。帝は蕭妃の肩にもたれかかり、自分が皇太子になった頃のことを語っていた。ちょうどその時若い宦官が薔薇のしげみに隠れて侍女をからかっていた。帯には薔薇が巻きつき、笑い声がくっくっと止まなかった。帝は腰つきが細くか弱いのを見て、袁宝児が密通していると思った。帝は単衣を羽織って足早に近づき捉えたところ、それは侍女の雅娘(がじょう)だった。

*月観宮:隋煬帝が行幸して泊まる、江都(揚州)での行宮。

もどって寝室に入ると、蕭妃は嘲笑(あざわら)って笑い止まなかった。帝はそこで言った。

 

 むかし自分で妥娘(だじょう)の所に出かけた時、有り様はちょうどあのようだった。この時は命すらも惜しくはなかった。後に月賓(げつひん)を得た時は、彼女にもったいぶられたので、思う存分に満足することがなかった。その時のわたしの愛憐の気持ちは、今日蕭娘(しょうじょう)(蕭妃)に対して抱く愛情に劣らなかった。前に()孝綽に倣って「雑憶」の詩を作り、常にその詩をそなた(妃)に歌って聞かせた。そなたは覚えているか。

 

蕭妃は問われ、すぐに朗唱して言った。

 

  睡る時を憶う                              (**)睡時

来たるを待つに(なぜ)か来たらず       待來剛不來

  装いを卸して(なお)(とも)(もと)           卸装仍索伴

(おびだま)を解きて更に相い(うなが)         解珮更相催

博山たきて思いは夢を結ぶも       博山(***)思結夢

沈水 未だ灰に成らず                 沈水(****)未成灰

待ちながら眠る時のことを思う。お前を待ってもなかなか来ない。化粧を落としてなおも相い方を求め、おび玉をとって更にせきたてる。香炉の博山炉をたいてお前を思って夢の中に入るも、沈水香はいつまでも灰にならない。

*劉孝綽:梁の沈約、任ムらに推賞される。昭明太子蕭統に重んぜられ、殷芸、王广、陸らの文学士と交わる。『隋書』経籍志に、「梁廷尉卿劉孝標集十四巻」とある。『梁書』巻三十三に伝がある。

**憶睡時:次の「憶起時」の句とともに、梁・沈約の「六憶詩」四首に倣ったもの。その詩は『玉台新詠』巻五に、「憶来時。的的上階。勤勤聚離別、慊慊道相思。相看常不足、相見乃忘飢。」「憶坐時。點點羅帳前。或歌四五曲,或弄兩三絃。笑時應無比,嗔時更可憐。」「憶食時。・・・」「憶眠時。・・・」とみえる。煬帝が自ら倣ったという劉孝綽の詩に「雑憶詩」はない。

***博山炉:古代の香を焚く器具。蓋に山を重ね獣が走る姿を彫る。漢魏に多い。図は「文博芸苑」(http://www.hnet.com.cn/wbyy/)による。

 

 

****沈水:香木の沈香のこと。芯の堅い部分が水に沈む。沈水香ともいう。『玉台新詠』巻十近代西曲歌楊叛児に、「歓作沈水香,儂作博山爐。」(歓(あなた)は沈水香を作り,儂(わたし)は博山爐を作る)とある。

 

また言った。    

 

  起きる時を憶う                           憶起時

  投籤(とうせん)初めて暁を(しら)                     ()籤初報暁

  (ふとん)()かるる香黛の残り  被惹香黛残

  枕に隠れし金釵(ふる)                     枕隠金釵

  笑いは動く上林の中                     笑動上林中

  除却す 司晨(ししん)の鳥             除却司晨鳥

朝起きる時のことを思う。時を報せる投籤が鳴って夜明けを告げる。(しとね)に眉墨の香りが残り、(笑いのために)枕の下に隠れた金の(かんざし)が絶えず揺れ動きつづける。笑い声が苑庭の中全体に響きわたり、夜明けを告げる鳥がびっくりして飛び去ってしまう。

*投籤:夜間に時を報せる竹のふだ。更籤、更籌ともいう。

 

帝はこれを聞いて、溜め息をつきながら言った。

 

  月日のたつのは早いもの。今ではもう数年前のことだ。

 

蕭妃は言った。

 

  外では群盜が多いと聞きますが、幸いにして帝がそれをお鎮めになろうとされています。

 

帝は言った。

 

  わしは内うちの事はすべて()素に任せてある。人は生まれてどのくらい生きられるというのか。たとえ他ならぬ異変があったとしても、わしは長城公なんぞに成り下がりはせぬ。そなたは宮廷外の事を申すでないぞ。

*楊素:字は処道。弘農華陰(陝西省)の人。陳討伐に功績があり、煬帝の重臣として司徒、楚国公となる。大業二年(606)卒。『隋書』経籍志に、「大尉楊素集十巻」とあり、巻四十八に楊素伝がある。『四庫全書総目提要』巻一百四十三は、煬帝が月観宮に行幸したこの時(大業十二年以降)、楊素は死去して久しかった、と指摘している。

 

帝が以前に梁の昭明太子蕭統の()選楼に行幸されたとき、車が到着する前に、先に宮女数千人に命じて楼に上って出迎えさせた。かすかな風が東から吹き寄せ、宮女の衣が風にしなやかに翻り、じかに肩と(うなじ)にかかった。帝はそれを見て、女色にのめり込むことにますます火がついた。そこで(**)楼を建て、田舎の少女を選んで住まわせ、薄い絹の単衣の(したばかま)を着せて、欄干にもたれて眺めさせると、その姿は風に乗って舞い上がるかの勢い。また名高いお香を四隅で焚けば、煙気が漂い、常時朝霧が晴れないかのごとくで、神仙境と称してもまだ足りないくらいであった。楼上には四張りの宝帳を張り、宝帳はそれぞれ異なる名をつけ、一つは散春愁(春の愁いを散ず)といい、二つは酔忘帰(酔いて帰るを忘る)といい、三つは夜酣香(夜酣の香り)、四つは延秋月(秋月を延(まね)く)といった。化粧道具や寝巻きは、宝帳ごとにそれぞれ造りが違った。

*文選楼:梁の昭明太子蕭統の遺跡。文選楼の遺跡は四カ所ある。襄陽(湖北省)、池州(安徽省貴池)、揚州(江蘇省)、江陰(江蘇省)。『江陰志』は、「文選楼は顧山寺にある。古く楼は七棟あり、楼の前に山茶一株があり、昭明太子の手によって植えられたと伝わっている。」という。一九八〇年十月の『光明日報』第三版に、江陰顧山公社の文選楼の前に小豆がある、実地に調査したところ、文選楼の遺跡はすでにないが、八十数歳の老人が覚えていて指で示した旧跡はそこだった、と記載している。隋煬帝が訪れた文選楼は、揚州の文選楼。

**迷樓:隋煬帝が建てた楼閣。唐、闕名撰『隋煬帝迷樓記』には、煬帝は晩年女色に沈迷し、役夫数万を動員して、楼閣高下、軒窓掩映、幽房曲室、玉欄朱楯、互相連属、回環四合、曲屋自通の楼閣を一年で完成。誤ってそこに入ると終日脱出できず、帝は喜んで、「真仙をその中に遊ばしむるも、またまさに自から迷うべきなり。これを目して迷樓というべし。」と言ったことから、迷樓といわれたことが描かれている。

帝は広陵(揚州)に行って以来、酒色におぼれて度を失い、眠るたびに必ず手足が揺れ動いたり、或いは歌声やさまざまな楽器が一斉に鳴って、それを聞いてようやく夢路にはいるありさまだった。侍女の韓俊娥(かんしゅんが)が特に帝に気に入られた。帝はいつも(やす)む時は呼びよせて、四肢を揺り動かすことを命じ、その後に眠りについたので、特に「来夢児」という名を授けた。蕭妃が密かに韓俊娥にたずねたことがある。

 

 帝はお身体の具合が悪いようだけれど、お前が安らかにすることができるのは、特別な媚態の術が有るのかい。

 

韓俊娥は畏れかしこまり、言った。

 

  わたくしは帝に付き従い都から参りましたが、帝はいつも何妥の車に乗っておられるのを見ました。車道は高低が不揃いで、女性の体が自然と揺れます。帝は揺れる体に寄り添ってお喜びでした。わたくしは今幸いにもお妃さまの恩コをこうむり、帳の下で帝の寝臥に侍っておりますが、わたくしなりに車の中の様子に倣って帝を安らかにしてさしあげているだけで、特別な媚態の術はございません。

 

後日、蕭妃は韓俊娥を罪におとしいれて追い出したが、帝はそれを止めることはできなかった。暇なある日、迷楼に登って彼女を思い、二篇の詩を詠んで東南の柱に書きしるした。

 

  黯黯として愁い骨を(おか)   黯黯愁侵骨

  綿綿として病い成らんと欲す        綿綿病欲成

  (すべから)く知るべし 潘岳の鬢 須知()岳鬢

  強半は多情たりと             強半為多情

     (韓俊娥のことを思うと)暗澹として愁いが骨をも侵し、綿々と続いて病気になるばかり。潘岳の髪が白髪になったわけは、彼が多情であったからだと思い知るべきなのだ。

*潘岳の鬢:晋・潘岳は「秋興賦」序で、「余は春秋三十有二、始めて二毛を見る」(『文選』巻十三)という。二毛は、頭髪に白髪が混じること。また、その「秋興賦」で、「斑鬢髟(た)れて以て弁(かんむり)を承け、素髪颯(さつ)として以て領(えり)に垂る」まだらな髪は冠を載せ、白髪はえり首に垂れている、と言っていることから、壮年の白髪を潘岳鬢という。

 

  (まこと)ならずや長く相い憶うは                     不信長相憶

  絲は鬢の(うち)()り生ず                                絲従鬢里生

  閑来 楼に倚りて立てば              閑来倚楼立

  相い望むがごとく(ほとん)ど情を含めり           相望幾含情

    (韓俊娥のことを)長く思い続けていたのは本当だった、白い糸が鬢の間から生えてきたのだから。ひまな時(しず)かに迷楼に寄りかかって立てば、互いに見つめ合うかのようで深い感慨を抱く。

 

 殿脚女たちが広陵に着いた後は、全員を月観宮に迎え入れたので、呉絳仙なども、したしく帝の寝殿に付き従うことはできなくなった。あるカ将が()瓜州(かしゅう)から帝の命令を伝えた後に戻ってきて、合歓(ごうかん)の果物、一器を献上した。帝は若い宦官に命じて馬を走らせ、一対の果物を呉絳仙に授けたが、馬が疾駆して揺れたために、果物はばらばらになってしまった。絳仙は賜り物をおしいただくと、(**)い箋紙に一筆したためて帝にささげた。

*瓜州:今の江蘇省揚州の西南、長江の北岸に位置する。『読史方輿紀要』巻二十三揚州府江都県瓜洲城に、「府の南四十里の江浜。昔は瓜州村という。揚子江の砂が堆積。砂が長く瓜の字状になっている。揚子江口に連接し、人が住む。」とある。

**紅箋:紅色の箋紙。詩詞を書いたり名刺を作ったりする。

 

駅騎 双果を伝えて                               駅騎伝双果

  君王の寵念深し                                      君王寵念深

(いず)くんぞ知らん 帝の(もと)を辞して 寧知辞帝里

複たは合歓の心無きことを                      無複合歓心

  駅馬が双つの果物を運んでくれて、帝が私を思ってくださる愛の深さを知りました。でもどうして、私の心は帝のもとを離れてしまい、二度と歓びをともにする気持ちはないことをご存じないのでしょうか。

 

帝は詩句を見て喜ばず、使いの宦官を顧みて言った。

 

  絳仙はどうしたのだ。どうして恨み深いことばをよこしたのだ。

 

宦官は驚き恐れ、お辞儀をして言った。

 

  あたかも騎馬で揺れましたために、月観宮に着いたときには、果物はすでに分離し、もとの連理の状態には戻りませんでした。

 

帝は意味が分からず、こう言った。

 

  絳仙はただ容姿が美しいだけでなく、詩の趣きがおく深くて、(おんな)司馬相如だ。また()左貴嬪(さきひん)にも劣らない。

*左貴嬪:西晋左思の妹、左芬のこと。好学でよく文を綴り武帝の貴嬪となった。『晋書』巻三十一后妃列伝上に、「武帝は左芬の詞藻を重んじ、地方の名産や珍宝があるたび、必ずそれを称美する文を作らせ、そのために帝の恩賜をうけることが頻繁にあった」とある。

 

帝が宮中において小さな宴を催したとき()拆字令(たくじれい)の遊びをして、漢字の左右離合の意味を考えさせた。

*拆字:字を偏・旁・冠・脚などに分解して、その意味で吉凶を占ったりすること。拆字令:酒宴の席で文字を分解してなぞをかける遊び。令官の役を選び、できない者やきまりを犯した者には罰則を与えたりする。例えば、「肉」を「内中人」、「三」を「眠川」、また唐の高祖「李」淵の出現を予言して「木子当天下」(唐・張読『宣室志』)など。

その時杳娘(ようじょう)が側に付き従っていて、帝は、

 

  余は「杳」の字を分けて「十八日」としよう。

 

と言った。すると杳娘は「羅」の字を分解して「四維」とした。帝は蕭妃をふり返り、

 

  そなたは朕の字を分解することができるか。できねば一杯の酒を飲まねばならぬぞ。

 

と言うと、妃はおもむろに、

 

  左を移して右に置いて書けば、なんと「()」の字になるではないですか。

*淵字:唐の高祖李淵の名。『隋書』巻二十二五行志上には、字を離合して世の興亡を占ったことが多く見える。「煬帝が即位して年号を大業とすると、識者がそれを憎み、『字に於いて離合すれば、「大苦未」となる』と言った。まもなく天下は乱れ、国土は塗炭の苦しみに覆われた」とある。淵の字は、李淵に取って替わられることを予測したもの。

 

と言った。時に人望は、多くが唐公(李淵)に向かっていたため、帝はこれを聞いて喜ばず、こう言った。

 

  余はそんな事は知らぬぞ、どうして「聖人」とならぬことがあるものか。

 

 かくして宮廷の内には()臣が台頭し、外からは盗賊が攻めこむようになった。直閣(**)裴虔通(はいけんつう)と虎賁カ将の司馬コ勤(しばとくきん)などが、左右屯衛将軍の()文化(ぶんか)(きゅう)を引き入れて反乱を謀ろうとしていた。そこで官奴に休暇を与えて、宿直を交替制にしたいと願い出た。帝は臣下の奏上を受け入れて、次のような詔を発した。

*奸臣、盗賊:『隋書』巻四煬帝紀下には「挙兵作乱、称皇帝」「挙兵反、自称天子」「聚衆数万為羣盜」「挙兵為盜、衆数万」などの記述が頻出し、宮廷の内外で反乱が頻発したことが分かる。

**裴虔通、司馬コ勤、宇文化及:『隋書』巻四煬帝紀下に、「義寧二年三月、右屯衛 将軍宇文化及、武賁カ将司馬コ戡、元礼、監門直閣裴虔通・・・等が、勇猛果敢の士を集めて乱を起こし、宮中の奥殿まで進攻した。帝は温室にて崩御し、時に五十歳であった。蕭皇后は宮人に命じて寝台を撤収して棺を造り埋葬させた。」とある。宇文化及は、司馬コ戡を温国公に封じた後、縊殺し、皇帝位について国を許と号し、裴虔通を国公とし、その後竇建コ(とうけんとく)に斬殺される。裴虔通は唐に帰属したが、隋朝で殺逆を犯した罪で除名され、嶺外の地で死んだ。司馬コ勤は、『隋書』には司馬コ戡のこととして見える。なお、明代小説の『醒世恒言』第二十四巻隋煬帝エ遊召譴は司馬コ戡とし、『隋煬帝艶史』第三十八回、『隋唐演義』第二十一節は、司馬コ勘としている。

 

  百僚各位。寒暑は交代して巡り来るゆえ、一年の時序が成り立つ。日月は代わるがわる明るくなるゆえ、労苦と安逸の均衡がとれる。ゆえに士子(読書人)にはくつろいで憩う歓談というものがあり、農夫には仕事を休む時節というものがある。ああ、お前たち官奴よ、労役に精勤し、怠りなくよく勤めた。爪や髪には垢や埃がたまり、兜には虱が湧くまでになっている。朕は甚だ気の毒に思う。この際お前たちに交代で休ませよう。ああ。そのむかし()方朔が滑稽をもって求めたようなことに煩わされず、(宮廷の)衛士の上奏文に従おう。(こうすれば)朕は侍従の者に対して恩コを施したことになるといえよう。以上の趣旨に従うべし。

 

かくて(**)草の変が起こった。

*東方朔の滑稽な求め:『漢書』巻六十五東方朔伝に次のような話がある。「漢武帝の時、東方朔は俸禄が薄く謁見することもできなかった。そこで、従僕の侏儒(こびと)をおどして、武帝はお前たちが役立たずでいたずらに衣食を求めているだけなので全員を殺そうとしている、と嘘を言った。侏儒たちは恐れて泣いて、武帝が通りかかったときに号泣しながら叩頭して詫びた。武帝は東方朔のしわざだと知って、東方朔をただしたところ、東方朔は、侏儒は身長が三尺余りで俸禄は穀物一袋と銭二百四十です。私は身長が九尺余りで俸禄が同じく穀物一袋と銭二百四十です。侏儒はたらふく食べて死にそうですが、私は飢えて死にそうです。と言った。武帝は大笑いして金馬門で詔命を待たせ、東方朔はしだいに武帝の親近を得るようになった。」と。

**焚草の変:『隋書』巻八十五宇文化及伝に、義寧二年三月一日、宇文化及と司馬コ戡、裴虔通等は勇猛な士を率いて謀反を起こし、「真夜中になると、司馬コ戡は東の城内に数万人の兵を集めて火を放ち、城外と呼応した。煬帝はその声を聞いて、何事かとたずねると、裴虔通は偽って、草葺きの作業場が火事となり、城外の人が消火にあたっております。だからやかましいのです。と言った。」帝はそれを真に受けて遂に宮中で殺された、とある。この兵乱を焚草の変という。



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